id:Geheimagentさんがテオドール・アドルノを読んでいるのに触発され、僕も『音楽社会学序説』の第9章「世論・批評」をちょっと読み返してみた。
- 作者: Th.W.アドルノ,高辻知義,渡辺健
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1999/06/14
- メディア: 文庫
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まあアドルノなので、なかなかに難解なのだが、例えばこんなところ、
音楽上の事柄には、音楽のさまざまなタイプにそれぞれ関心を抱くグループごとに、断固としたものでこそないがきわめて効果的な世論が存在する。これが伝播してそのステロ版をつくり、そしてその逆が生じる。このステロ版は、世論の形ができるときになってそれに色をつけるというのではなく、すでに一見初歩的な反応形式をあらかじめ決定するもの、あるいは少なくとも、それらの構成要素の一つであるかもしれない。このことはテストしてみる必要があろう。おそらく無数の人間が、世論によってその手に与えられたカテゴリーに従って聞いているのであり、直接与えられるもの自体、それそのものの中で仲介を経ているのである。
ここでアドルノが言っているのは、多分、われわれは「音楽そのもの」を聴いてはいない、聴くことはできない、ということだろう。世論が与えたカテゴリーを通して音楽を聴き、したがって、音楽を聴いたときの反応ですら、それが「初歩的」なものであるとしても──素朴なものであったとしても、むしろそれが「素朴な反応」であるがゆえに、すでに世論にしたがっているものだ、と。世論→音楽。
解説で龍村あや子氏がアドルノの重要な概念として<媒介 Vermittlung>を挙げているが、この<媒介>が、ここで言う世論/批評ということになるだろうか。すなわち「現象の内に潜む歴史的社会的媒介性を意味するが、それは同時に現象の見かけの有様を批判する否定性のモメントでもある」(p.433)こと。
音楽世論の常設機関は批評にある。批評に文句をつけたいという、骨肉にしみ込んだ気持ちの背後には、非合理主義的市民的芸術宗教がひそんでいる。この宗教に息吹を与えているのは、人生の中の制御不可能な領域が批評的思考の手でまたも奪い取られているのではないかという不安である。さらにはまた、すべての劣悪な実証的精神が、自らを揺さぶられる可能性に対して抱く反感である。世論の一部でさえあるこうした偏見から、批評を守らねばならない。
『音楽社会学序説』 p.293-294
「音楽世論の常設機関は批評にある」というのがちょっと分かり難い。それと、すべての劣悪な実証的精神の反感というのは、「実証的精神の反感」ではなくて、「劣悪な実証的精神の反感」であり、それは「世論の一部」であり、その「世論の一部」から批評を守らなければならない、と読める。
批評家に対する憎しみは、音楽を意識から遮断し、音楽の非合理性という半真理の中にもぐり込むことによって、音楽を破損する。音楽は、音楽の中にせまり入る精神と同様、それ自体精神である。しかし、事柄からすっかり閉めだされていると感じる人たちの怨みは、たいていは不当にも自分たちは通だと思っている人たちに、その目標を見いだす。他の分野同様、音楽においても、告訴されるのは一つのシステムの仲介者、そのシステムの徴候であるにすぎない仲介者である。批評の相対性という、世に横行する非難は、誤用された精神をもっていかなる精神をも無用だとしてしまう考えの特例にすぎず、その言うところは少ない。批評家の主観的反応というものについては、時には批評家自身がおのれの主権を証明するために、それは偶然のものだと言明することがあるが、そうした主観的反応というものは、判断の客観性にではなく、判断の条件に対置されるものである。そのような反応がなければ、音楽は、そもそも経験されることがないのである。
知覚される現象との絶えざる対決によって、印象を客観にまで高めることは、批評家のモラルにかかっていよう。批評家が実際に有能であれば、その印象は、音楽に無縁な高位高官の人が邪念なく下した評価よりも、客観的なのである。
『音楽社会学序説』 p.294-295
ここは「音楽=現象を経験する/経験できる」とはどういうことか、が述べられている。これが弁証法に則った理解の仕方であり、id:Geheimagentさんが記している、
命題Aと命題Bが、永久的な緊張関係を結ぶことであろう。AとBは反発しあう。しかし、それらは相手を相互的に補いながら、どちらに帰結することもなく「本質」を描きあうことになる。
であり、だからこそ、批評はつねに・すでに「音楽」に内在している。
批評の権利を何よりも強く物語っているのは、ナチスによる批評の撤廃である。あれは生産的な仕事と非生産的な仕事の相違を愚鈍にも精神上のことに置きかえるものであった。批評は音楽そのものに内在する。それは、成功した音楽のどれをも力の場として成果を上げるにいたらしめる仕事を、客観的に行う手続きである。音楽の批評は音楽自体の形式法則によって要求される、すなわち、作品とその真理内容の歴史的開花は批評という媒体によって生じるのである。
ベートーヴェン批評の歴史を見てみれば、彼に関する批評的意識の新しい層ごとに彼の作品の新しい層も現れてきたこと、ある意味ではそもそもこのプロセスによって初めて新しい層が成立したことを明らかにすることができるであろう。
『音楽社会学序説』 p.296
「成功した音楽」については、『不協和音』では、ある作品を「成功請け合い」たらしめる「成功カテゴリー」として説明している。「成果」は「有効性」である。
名曲の選定そのものが、成功カテゴリーの意味における「有効性」を規準として行われるのだが、このカテゴリーは軽音楽を規定するとともに、スター指揮者に対して、プログラムのお膳立てで聴衆を魅了することを許している当のものである。
ベートーヴェンの第七シンフォニーに見られる高揚と、チャイコフスキー第五の緩徐楽章における言語に絶したホルンのメロディとが、そこでは同列に肩を並べるのだ。このメロディというのが、八小節のシンメトリカルな上声メロディという代物なのである。
これが作曲者の「着想」として登記されるのだが、作曲者の不動産としてみとめられるのに準じて、聴衆の方でもそれを我が物顔に家に持ち帰れるとおもっているのだ。
ところで着想という概念は、ほかならぬクラシックとして位置づけられた音楽に対しては、あらかた不適当なのである。その多くが分解された三和音から成るクラシックの主題素材は、たとえばロマン派のリートにおけるように特殊な具合で作曲家のものであることは絶えてないのであって、ベートーヴェンの偉大は、むしろ、偶然で私的な旋律要素を挙げて形式全体に従わせたところにあらわれているのだ。
『不協和音―管理社会における音楽』(三光長治+ 高辻知義 訳、平凡社ライブラリー) p.32-33
そして重要なのは、批評によって(ベートーヴェンの)作品の「新しい層」が現れてきたこと。逆に言えば、批評という<媒介>なしに「作品」は生じない。「単なる作品」があるだけだ。「否定的な/ネガティヴな」プロセス──弁証法的プロセスが、どうしても必要だ。
社会的にいって音楽批評は正当である。なぜなら一般の意識が音楽現象を適正にわがものとすることを可能にするのは音楽批評だけだからである。
しかしそれにもかかわらず音楽批評は社会的な問題性にかかわりを持つ。音楽批評は、新聞のような社会的統御を行い経済的利害を持つ機関につながれている──これは批評家の姿勢に食い込んで出版業者や他の名士連を顧慮させるにいたる関係である。そればかりではない、さらにそれ自体の内部で、明らかに批評の課題をますます困難にする社会的諸制約に屈してしまうのである。
ベンヤミンはかつてこの課題をエピグラム風にこう定義した、「公衆はたえずおまえが間違っていると言わなければならないが、それでも常に批評家が自分たちを代表しているのだと感じないわけにはいかない」。その言わんとするところは、批評は、客観的かつその限りにおいてそれ自体社会的な真理を、社会の中に前もってネガティヴに芽ばえている一般意識に対置させねばならない、ということである。
『音楽社会学序説』 p.296-297