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Kimi | 統計力学 可逆から不可逆へ ポアンカレの回帰定理とボルツマンのH定理


可逆性と不可逆性:統計力学の論理構造

統計力学の核心は、まさに「時間に関して対称なミクロな法則から、時間に関して非対称なマクロな法則をどう導くか」にあります。以下の順で進めます。

  1. 可逆過程と不可逆過程の物理的仕組み
  2. 位相空間とリュービルの定理
  3. ポアンカレの回帰定理
  4. ボルツマンのH定理(中心的な導出)
  5. 三つの定理の「見かけの矛盾」の解決

1. 可逆過程と不可逆過程:何が問題なのか

ミクロな運動は完全に可逆

N粒子系の運動はハミルトニアン

で記述され、ハミルトンの運動方程式

$$\dot{\mathbf{q}}_i = \frac{\partial H}{\partial \mathbf{p}_i}, \qquad \dot{\mathbf{p}}_i = -\frac{\partial H}{\partial \mathbf{q}_i}$$

に従います。

この運動方程式は時間反転対称です。 時刻 t₀ で全ての速度を反転させて(v → −v)、そのまま時間を進めると、系は丁度元の時刻 t₀ の状態に戻ります。つまりミクロな世界では「過去に逆戻りする映画」を再生しても、物理法則に違反しません。

マクロな世界は不可逆

一方、日常の世界では:

  • 熱いコーヒーは自然に冷めるが、逆には起きない
  • ガスは自由膨張して広がるが、自分から元の半分に集まらない
  • エントロピーは増大する(熱力学第二法則)

この「ミクロな可逆性」と「マクロな不可逆性」の齟齬が、ロシュミット(Loschmidt)の逆説とツェルメロ(Zermelo)の逆説として、19世紀末にボルツマンを追い詰めた問題です。

問題の構造化

ここで論理を整理します。ミクロな可逆性とマクロな不可逆性を両立させるには、次の三つの命題のどれかが「偽であるか、単純でない」ことを示す必要があります。

  1. ミクロ運動は時間反転対称
  2. 位相空間の有限な部分体積内では、系はほぼ必ず初期状態に近い状態へ回帰する
  3. マクロな分布関数は単調に平衡へ近づく(H定理)

命題1を裏付けるのがハミルトン力学、命題2がポアンカレの回帰定理、命題3がH定理です。そして命題1からリュービルの定理(相体積保存)が従い、これが命題2の証明の基礎になります。三者は一つの論理の鎖につながっています。

まず、道具として位相空間を導入します。


2. 位相空間とリュービルの定理

2.1 位相空間と分布関数

1つの粒子には位置 q と運動量 p の6個の座標が必要ですから、N 粒子系全体では 6N 次元の位相空間 Γ(ガンマ空間)に系の状態は一点として表されます。状態の時間発展は、この6N次元空間内の軌道です。

ここで、単一の軌道ではなく「無数の仮想的な系の集まり(アンサンブル)」を考え、その密度を分布関数 ρ(q₁,…,q_N, p₁,…,p_N, t) で表します。

なぜ分布関数を導入するのか:真のミクロ状態は一つしか知りませんが、マクロ観測は完璧ではなく、また理論として扱いやすいのは、確率分布に従う集団です。しかも重要なことに、後で見るように、不可逆性は「分布の扱い」から生じます——単一軌道には不可逆性が潜んでいないのです。

2.2 リュービルの定理の主張

系の位相空間内での時間発展は、相体積を保存する。すなわち、分布関数 ρ は流れに沿って不変(dρ/dt = 0)である。

直観で言えば:位相空間で系が占める「雲」は、時間とともに形を変えて伸び縮みするが、総体積は決して増えも減りもしない。この事実が、ポアンカレ回帰の証明に直結します。

2.3 導出

ステップ1:位相空間の速度場の発散を計算する

位相空間の「流れの速度」は (q̇, ṗ) です。その発散は:

$$\nabla \cdot \mathbf{v} = \sum_i \left( \frac{\partial \dot{\mathbf{q}}_i}{\partial \mathbf{q}_i} + \frac{\partial \dot{\mathbf{p}}_i}{\partial \mathbf{p}_i} \right) = \sum_i \left( \frac{\partial^2 H}{\partial \mathbf{q}_i \partial \mathbf{p}_i} - \frac{\partial^2 H}{\partial \mathbf{p}_i \partial \mathbf{q}_i} \right) = 0$$

なぜこの計算をするのか:連続の式(次のステップ)に現れるのが「発散」だからです。そこで、ハミルトンの方程式を代入してみると、2階の混合偏微分が打ち消し合うことが、計算をやってみるまで自明ではありませんでした。ハミルトン形式の美しさはここにあります——運動方程式がちょうど「発散ゼロの流れ」を定めるのです。

ステップ2:連続の式を立てる

ρ は確率密度なので、勝手に生成も消滅もしません。よく知られた連続の式:

$$\frac{\partial \rho}{\partial t} + \nabla \cdot (\rho \, \mathbf{v}) = 0$$

なぜ連続の式なのか:「個数の保存」を局所的に表現するのが連続の式だからです。「領域内での増加 = 流入 − 流出」を微分形に書けばこれになります。確率密度は流体と同様に保存される量です。

ステップ3:発散を展開して、リュービルの式を得る

∇·(ρv) = v·∇ρ + ρ(∇·v) ですが、ステップ1で ∇·v = 0 と分かったので:

$$\frac{\partial \rho}{\partial t} + \mathbf{v} \cdot \nabla \rho = 0$$

ここが重要な分かれ目です:もし ∇·v ≠ 0 なら、右辺に ρ(∇·v) が残り、ρ は流れに沿って変化します。ハミルトン力学によって発散がゼロになるため、ρ は流れに沿って不変になるのです。つまり、ρ を位相空間の流れに乗せて t だけ進めても値は変わらない:

$$\frac{d\rho}{dt} \equiv \frac{\partial \rho}{\partial t} + \mathbf{v}\cdot\nabla\rho = 0$$

等価な言い方:リュービル作用素 Lρ ≡ {H, ρ}(ポアソン括弧)を使えば ∂ρ/∂t = −Lρ、したがって ρ(t) = e−iLtρ(0) で、時間発展はユニタリな(体積を保存する)変換です。これは量子力学のユニタリ発展と数学的に同型です。

2.4 解釈:リュービルの定理は「可逆性の母艦」

この定理が意味すること:

  • 相体積は保存される → ギュッと圧縮も、パッと拡散もしない
  • 「粗いマクロ状態(例:全分子が左半分にある)」に対応するミクロ領域は、時間とともに細く千切れながらも総面積(体積)を保って位相空間に広がっていく

この「均質化(filamentation)」の様子が、後で不可逆性の直観的理解の鍵になります。


3. ポアンカレの回帰定理

3.1 主張

位相空間内の有限測度を持ち、測度保存的な変換(ハミルトン流)で時間発展する系において、ほぼ全ての初期状態は、有限時間の後に初期状態の任意に近くへ戻る。さらに、無限回戻る。

直観:有限な水槽でかき混ぜた水は、永遠かき混ぜれば元の模様にほぼ戻る、ということです。

3.2 仮定の確認(なぜこれらが必要か)

  1. 位相空間の体積が有限:無限大の空間なら「戻ってくる」場所が定まらない
  2. 測度保存性:これはリュービルの定理が保証する
  3. 可逆性・決定性:軌道が一意に定まる(ハミルトン流は微分同相写像)

3.3 証明

ステップ1:「二度と戻らない点」の集合を定義する

初期集合 A(位相体積 μ(A) = ε > 0 の領域)を考えます。A のうち「一度出たら二度と A に戻らない」点の集合を:

$$B = A \cap T^{-1}(A^c) \cap T^{-2}(A^c) \cap \cdots$$

ここで T は時刻 τ 進める時間発展写像、T⁻ᵏ は時刻 τ 戻す写像です(x ∈ T⁻ᵏA ⟺ Tᵏx ∈ A)。

なぜ「戻らない点」を考えるのか:主張は「ほとんど全ての点は戻る」なので、背理法的に「戻らない点」が測度ゼロであることを示せばよいからです。

ステップ2:時間発展したコピー同士が重ならないことを示す

B の k 回時間発展 TᵏB(k = 0, 1, 2, …)は、互いに素です。背理法で示します。

y ∈ TⁿB ∩ TᵐB(n < m)と仮定。すると:

  • Tⁿy ∈ B ⊂ A:時刻 nτ の時点で y は A にいる
  • 同時に Tⁿy ∉ T⁻ʲA(全 j ≥ 1):定義より B の点は今後戻らない

ところが Tᵐy ∈ B ⊂ A で、Tᵐy = Tᵐ⁻ⁿ(Tⁿy) であり m − n ≥ 1 だから、Tⁿy から見れば「時刻 (m−n)τ 後に A に戻っている」ことになり、上と矛盾。∴ 互いに素。

なぜこの操作をするのか:重ならない集合を無限に作れれば、有限の空間に「同じ大きさの互いに素な領域」を無限個詰め込むことになり、測度の有限性に矛盾するからです。「矛盾へ向かう材料」として互いに素性が必要なのです。

ステップ3:測度保存性で打ち止め

リュービルの定理より μ(TᵏB) = μ(B)(時間発展で体積が変わらない)。ところが互いに素な集合 B, TB, T²B, … が無限にあり、全体空間の体積は有限。したがって

$$\mu(B) + \mu(TB) + \mu(T^2B) + \cdots = \infty \cdot \mu(B) \le \mu(\Gamma) < \infty$$

これを満たすのは μ(B) = 0 のみ。つまり「一度出たら二度と戻らない点」は測度ゼロ。

したがって、A のほぼ全ての点は、A に(有限時間内に)戻る。回帰時間が初期点によって違うだけで、ほぼ全ての点について有限の回帰時間が存在する。 ∎

3.4 回帰時間の大きさ

証明は存在を保証するだけで、時間の大きさは言いません。見積もりをしましょう。

N ≈ 10²³ 個の分子が自由膨張した後、全てが元の半分に戻るまでの時間は、粗く見ても

$$\tau_{\text{rec}} \sim \tau_0 \cdot 2^N$$

程度です(τ₀ ~ 10⁻⁹ s 程度の分子時間)。210²³ は、宇宙年齢 ~ 4×10¹⁷ s の何京倍という、物理的には「永遠」です。つまり回帰定理は正しいのですが、日常の不可逆現象の時間尺度では回帰を観測するのは不可能です。これが、ポアンカレ回帰と熱力学第二法則の「矛盾」の実際の解決策の一つです(後述)。


4. ボルツマンのH定理

いよいよ核心です。H定理は、ミクロな可逆な力学から、マクロな不可逆な「エントロピー増大」を導こうとするボルツマンの試みです。

4.1 ボルツマン方程式の導入

ここで数学を劇的に簡単にするため、分子の速度分布関数 f(r, v, t)(時刻 t、位置 r の近くで速度 v を持つ分子の数密度)を考えます。これは6N次元の ρ ではなく6次元の「粗視化された」分布です——この粗視化自体が不可逆性の第一の源です(後で詳述)。

f の時間発展は、自由飛行 + 外力 + 分子間衝突:

$$\frac{\partial f}{\partial t} + \mathbf{v}\cdot\nabla_r f + \frac{\mathbf{F}}{m}\cdot\nabla_v f = \left(\frac{\partial f}{\partial t}\right)_{\text{coll}}$$

なぜこの方程式か:マクスウェル・ボルツマン分布からずれたときにどう戻るかを記述したいからです。右辺の碰撞項が非平衡の「緩和」を生みます。

4.2 碰撞項(衝突項)の形と「分子カオス」の仮定

2体碰撞のみを考えると、碰撞項は:

$$\left(\frac{\partial f}{\partial t}\right)_{\text{coll}} = \int\!\!\!\int\!\!\!\int [f' f_1' - f f_1]\, g\, \sigma\, d\Omega\, d^3v_1$$
  • g = |v − v₁|:相対速度(衝突頻度に比例するため掛ける)
  • σ dΩ:微分断面積(どの角度に散乱されるか)
  • f'f₁' − ff₁:「生み出される(逆碰撞から)」−「失われる(正碰撞で)」——なぜこの差の形か:分布の時間変化は「産出 − 消費」だからです。これは化学反応の速度論と同じ構造です。
  • ここで f ≡ f(v), f₁ ≡ f(v₁), f' ≡ f(v'), f₁' ≡ f(v₁') で、(v', v₁') は (v, v₁) の弾性碰撞後の速度。

ここで重大な仮定「分子カオス」(Stosszahlansatz)が入ります:衝突する2分子の速度は統計的に独立、すなわち衝突直前に f₂(v, v₁) = f(v) f(v₁) であると仮定します。

なぜこれが重大か:この仮定は時間反転対称ではありません。2分子が衝突「後」には相関が生じます(弾性碰撞で速度が結びつくから)。ボルツマンは「衝突のたびに相関を捨てる」操作を暗に行っています。つまり H 定理は純粋な力学の定理ではなく、各瞬間に「無相関化(粗視化)」を行う運用規則を含んでいるのです。これが後のロシュミット逆説の鍵です。

4.3 H関数の定義と「なぜ f ln f なのか」

$$H(t) = \int f \ln f \, d^3v\, d^3r$$

なぜこの奇妙な組み合わせか——これが本問の核心なので、動機から説明します。

  1. エントロピーは k_B ln Ω で、Ω はマクロ状態に対応するミクロ状態の数です。Ω の数え上げ(座標格子と運動量格子でセルを切って数える)を実際にやると、S = −k_B ∫ f ln f + const という形になります(スターリングの近似が使われる)。つまり H = −S/k_B です。H の減少 = エントロピー増大です。
  2. f ln f という形が使いやすい理由:導関数が (f ln f)' = ln f + 1 で、碰撞で不変な量(1, v, v²)と ln f の間の線形代数がきれいに働くからです。ln f は単調関数であり、「大小関係の比較」に使える。

4.4 H定理の証明

ステップ1:dH/dt の計算を開始する

$$ \frac{dH}{dt} = \int \frac{\partial}{\partial t}(f \ln f) \, d^3v\, d^3r = \int \frac{\partial f}{\partial t} (\ln f + 1) \, d^3v\, d^3r$$

なぜ ∂/∂t で微分するのか:H 自体は t の関数なので全微分ですが、v, r は積分変数なので偏微分の形に帰着します。

ステップ2:ボルツマン方程式を代入する

∂f/∂t = −v·∇ᵣf − (F/m)·∇ᵥf + Q(f,f)(Q を碰撞項と略記)を代入します。

ステップ3:「流れ項」が全部消えることを示す

ここで技術的なポイント:∫ (ln f + 1)(−v·∇ᵣ f) d³r の部分を部分積分します。境界で f → 0 だと仮定すれば境界項は消え、

$$\int (\ln f + 1)(-\mathbf{v}\cdot\nabla_r f)\, d^3r = \int f \cdot (\text{r に関する関数の発散}) = 0$$

(ln f + 1 を掛けて積分した場合は、∇ᵣf の積分が境界で消えるため)。外力項も同様に ∇ᵥ の部分積分で消えます。

なぜこれが嬉しいのか:すると dH/dt は碰撞項だけで決まる——つまり「H が減るのは衝突のためであって、単なる移動や重力ではない」という物理が明快に見えるからです。自由に飛んでいるだけでは H は変わらず、分子同士がぶつかって速度を交換し合うときに初めて均一化が進むのです。

ステップ4:碰撞項の寄与を書く

$$ \frac{dH}{dt}\bigg|_{\text{coll}} = \int (\ln f + 1)\, Q(f,f)\, d^3v $$

ステップ5:なぜ「+1」が無視できるか

Q(f,f) を積分すると:∫Q d³v = 0 です。なぜなら碰撞で分子の総数は保存する(碰撞不変量の第0成分)から。よって (ln f + 1) のうち 1 の部分の寄与は消え:

$$ \frac{dH}{dt}\bigg|_{\text{coll}} = \int \ln f \, Q(f,f)\, d^3v = \iiint \ln f \, [f'f_1' - f f_1]\, g\sigma\, d\Omega\, d^3v_1\, d^3v $$

ステップ6:積分変数の交換(第一の操作)—— (v, v₁) ↔ (v₁, v)

被積分関数の中で v と v₁ を入れ替えると、gσ は対称、f'f₁' − ff₁ は符号が変わるだけで、積分の値は不変:

$$ I = \iiint \ln f \, [f'f_1' - f f_1]\, g\sigma\, d\Omega\, d^3v_1 d^3v = \iiint \ln f_1 \, [f'f_1' - f f_1]\, g\sigma\, d\Omega\, d^3v_1 d^3v $$

なぜこの操作をするのか:2つを足して平均を取ると ln f + ln f₁ が現れ、これは衝突の「対」に関する情報に対称な形になるからです。本質:1個の分子の挙動ではなくペアの挙動に言及したい——不可逆性は「ペアの衝突の統計」から生じるからです。

$$ I = \frac{1}{2} \iiint (\ln f + \ln f_1)\,[f'f_1' - f f_1]\, g\sigma\, d\Omega\, d^3v_1 d^3v $$

ステップ7:積分変数の交換(第二の操作)—— (v, v₁) → (v', v₁')「逆碰撞への置き換え」

ここが H 定理で最も深い操作です。弾性碰撞には、力学から次の対称性があります:

  • ヤコビアン |∂(v,v₁)/∂(v',v₁')| = 1(6×6のヤコビ行列式が1——弾性碰撞の運動学的恒等式から)
  • g' = g(相対速度の大きさは保存)
  • 微分断面積の対称性:σ(v,v₁→v',v₁') = σ(v',v₁'→v,v)(これは時間反転対称性そのもの!)

これらにより、積分の変数を (v, v₁) から (v', v₁') に変えても積分値は不変:

$$ I = \frac{1}{2} \iiint (\ln f' + \ln f_1')\,[f f_1 - f'f_1']\, g\sigma\, d\Omega\, d^3v_1' d^3v' $$

ここで「なぜ」に留意してください:我々は今、ミクロな可逆性(時間反転対称)を数学的な恒等式として利用しました。H 定理の不可逆性は、決して可逆性の否定ではなく、可逆性を積極的に使って証明されるのです。これは一見パラドックスですが、正に統計力学の論理の要です(後で解釈します)。

ステップ8:二つの式を足して、決定的な因数分解を行う

ステップ6の式とステップ7の式(右辺は f と f' を交換したものだから、足せば打ち消し合う項ができる)を加える:

$$ I = \frac{1}{4} \iiint (\ln f + \ln f_1 - \ln f' - \ln f_1')\,[f'f_1' - f f_1]\, g\sigma\, d\Omega\, d^3v_1 d^3v $$

なぜ因数分解が効くのか:ここで自然対数の性質 ln a − ln b = ln(a/b) と、ln が単調増加であることを使います。X ≡ ff₁, Y ≡ f'f₁' とおくと:

$$(\ln X - \ln Y)(Y - X) \le 0 \qquad (\text{等号は } X = Y \text{ のときのみ})$$

なぜなら:X < Y なら ln X < ln Y で第一因数負・第二因数正、X > Y なら逆、X = Y ならゼロ。絶対値の大小関係が一致するので常に ≤ 0。被積分関数の残りの因子 gσ は非負、体積要素は正。よって

$$\boxed{\frac{dH}{dt} \le 0}$$

等号成立条件:全ての衝突で ff₁ = f'f₁'、すなわち ln f が碰撞不変量の一次結合。つまり

$$\ln f = A + \mathbf{B}\cdot\mathbf{v} + C v^2 \;\;\Longrightarrow\;\; f \propto \exp\left(-\frac{m(\mathbf{v}-\mathbf{u})^2}{2k_B T}\right)$$

マクスウェル分布に達したときに限り dH/dt = 0。 したがって H は単調減少して平衡で最小値に留まり、エントロピー S = −k_B H + const は単調増大する。∎

4.5 証明の構造を振り返る

操作 動機 使った対称性
ln f を掛ける f ln f の微分構造 —
(v,v₁)↔(v₁,v) ペアの対称性を作る 衝突の対称性
(v,v₁)→(v',v₁') ln f と ln f' を足して打ち消す 時間反転対称(可逆性)
因数分解 ln の単調性 数学の性質

興味深いことに、不可逆性は最後の「不等式」一箇所からだけ生じているのです。等号条件を除けば全ての式変形は恒等式です。つまり不可逆性は「何かが失われる」のではなく、「不等号が一箇所入る」ことに過ぎません。その不等号は、分子カオスの仮定(衝突前無相関・衝突後は相関を捨てる)から来ています。


5. 見かけの矛盾の解決:なぜ可逆が不可逆になるのか

ここで三つの定理を対比します。

5.1 ロシュミットの逆説(対 H 定理)

「ミクロ運動が時間反転対称なら、H が減少する過程の時間反転(H が増加する過程)もまた力学に従う。なぜ H は減るのか?」

解答:H定理は純粋な力学の定理ではありません。証明のどこかで、時間反転に不変でない仮定が入っています。それが:

  • 分子カオス(Stosszahlansatz):衝突直前の2分子は無相関だが、衝突直後は相関が生じる。ボルツマン方程式は衝突のたびにこの相関を捨てる。時間反転すると、「相関を捨てる」操作は「相関を捏造する」操作に変わる。

したがって H 定理の正しい解釈は:

「分子カオスを仮定した初期条件については、ほぼ確実に H は減少する」

つまり力学の定理ではなく、初期条件に関する確率的な主張です。時間反転した特別な初期状態(分子が妙に相関した状態)では H は増えますが、そのような状態は「典型的でない」のです。

5.2 ツェルメロの逆説(対 H 定理)

「ポアンカレ回帰によれば系は必ず非平衡へ戻る。H が単調減少するとは言えない。」

解答:回帰時間 ~ eN(N ~ 10²³ なら宇宙年齢の何京倍)で、観察可能な時間では回帰は起きません。熱力学第二法則は「絶対に破られない法則」ではなく、「破られる確率が観察可能な時間では無視できる法則」です。

また、エントロピーの変動(フローク)は確率的に存在し、その典型的な大きさは相対的に 1/√N 程度——マクロな N に対して観測不能です。

5.3 統合的な理解:なぜ不可逆性が「典型になる」のか

三つの定理を繋げると、不可逆性の論理構造は以下のように整理されます。

(a)リュービル:情報は失われないが、「見える情報」は失われる

相体積は保存されますが、非平衡マクロ状態(例:「全分子が左半分」)に対応する相領域は、時間とともに何億条の細いフィラメントに千切れて、粗い目で見れば平衡領域全体に均質化します。フィラメントの間を縫って「低エントロピーな小部屋」を正確に見分けられれば過去を復元できますが、マクロな観測では不可能です。不可逆性は「観測の粗さ」に由来します。

(b)数え上げ:非平衡は「珍しい」

マクロ状態 Ω に対応するミクロ状態の数を W(Ω) とすると、エントロピー S = k ln W。全分子が左半分にある状態の W は全体の 2-N 倍。動力学が(リュービルにより)体積を保存してラッキョウ状に伸ばしていくと、「次の瞬間に低エントロピー側にいるミクロ状態の割合」は圧倒的に小さい(2-N より小さくなる方向に進む確率がほぼ1)。これが「なぜエントロピーが増えるか」の数え上げによる説明です。

(c)H定理:それを運動論的に書いたもの

ボルツマン方程式はこの数え上げを「衝突の統計」として動的に実現したもので、分子カオスは「現在のマクロ状態が典型的であること」の代理変数です。H の減少とは「分布が衝突を通じてより数え上げ的多い方へ進む」ことの表現です。

(d)ポアンカレ:「ほぼ全て」は「全て」ではない

回帰は確率ゼロではなく有限です。しかし回帰を待つ時間が eN である限り、我々の宇宙の時間尺度では第二法則は実質的に絶対です。

5.4 現代的なまとめ(粗視化と初期条件)

現在の標準的な理解は:

  1. ミクロな法則は可逆(リュービル:ユニタリ発展、情報保存)
  2. 不可逆性は粗視化から生じる:H 関数やエントロピーは f(粗視化分布)に対して定義され、粗視化のたびに情報を捨てている
  3. それでもなぜ不可逆なのか:低エントロピーな初期条件(過去仮説)が与えられれば、典型的なミクロ状態はエントロピー増大方向へ進む。逆方向に進む特殊なミクロ状態は存在するが、2-N の確率でしか選ばれない
  4. H定理は「定理」ではなく「ほぼ全ての初期条件についての主張」:ロシュミット逆説は「H が増える軌道が存在する」ことを正しく指摘したが、ボルツマンは「それらは測度ゼロで非典型的」と応じた——そしてポアンカレ回帰(有限時間後の戻り)の存在も、測度と時間尺度の議論で包摂される

結論:「なぜ可逆が不可逆になるのか」

一言でまとめると:

ミクロな運動は可逆だが、マクロな記述は粗視化によって情報を捨てており、かつ低エントロピーな初期条件が課せられているため、典型的な軌道はエントロピー増大方向へ進む。H 定理はこの典型性を運動論的に表現し、リュービルとポアンカレは「ほぼ全て」という確率的な性質の限界(回帰・変動)を数学的に正確に示す。不可逆性は自然の根本法則ではなく、「我々が選択した記述の階層と、宇宙の初期条件」から生じる物理的性質である。

特に美しいのは、H 定理の証明がミクロな可逆性(逆碰撞の対称性)を不可欠の道具として使っていることです。不可逆性は可逆性の否定としてではなく、可逆性の集団的・統計的な帰結として現れる——これが統計力学の論理の核心です。