1966年にオランダ司教団によって編纂されたキリスト教の教理指導書 De Nieuwe Katechismus/Dutch Catechism における、「救いへの非キリスト的な努力」としてのマルクス主義(および社会主義、ヒューマニズム)に対する視点──信念の相違について。
西洋のヒューマニズムの特殊の様式は、マルクス主義である。これは確かに解放の主義である。それはマルクスの両親が、ユダヤ人で、まだ救いを持っている民族のメンバーだったことと無関係と云えないだろう。仏陀の場合と同様に、マルクスのためにも、人間のみじめさが動機であった。前世紀の前半に新しく生まれた産業による労働社会の非人間的の状態はかれを考えさせた。
マルクスは仏陀と違って、個人的な鎮静、苦痛を感じなくなること、全宇宙そのものの中に流れこむことによって、救いを求めるのではない。またヒューマニズムのように、人間であることのありさまをあきらめることにおいてでもない。彼は、はっきりした一定の作用において、すなわち、私たちの肉体的労働に対する最初の態度に戻ることにおいて救いがあると考えた。以前、自然の状態において人は自分の手による作品の所有者だった。その作品の中に人は「自分」を注いで、それによって自分を失った。しかしそれを楽しみ、利用することができたので、自分を保有することもできた。つまり自分を疎外することはなかった。しかし文化において、分業と機械化によって異なった状態が生じた。ある人は莫大な生産手段を有し、他の人はその生産のために働く。一方はますます金持ちになり、自分の作っていないものをも有している。その人の自我はそのものに吸収される。これらのものは自我の伸張になる。自我はそれによってある意味において別のものになる。こうして自分の最も人間的な自我に対して別人になる。かれは疎外されてしまう。
他方搾取された労働者も同じく疎外されるが、より残酷に。自分の手で作るものに自分を入れて置く。その作品を保有すれば、自分を保有する、しかしそれを出さねばならない(そしてそれが値する程の俸給を貰わない)。このようにしてかれも疎外される。
こういう状態から解放される必要性は後者から出るのである。だからかれらの方では、救いと将来が期待される。マルクス主義の見解では、こんな状態は耐えられなくなる。富者の富がますますふえ、その人数は減るだろう。そして貧しい人はより貧しくなり人数はふえる。ついに爆発が起こって、労働者階級は権力をにぎり、生産手段を皆のものにして、プロレタリア独裁を設立する。その後は、解放の社会が始まり、その中に自然の状態は再び存在する。人は自分で作ったものを楽しみ、自然に対する関係は復古する。働きたい時に働く「共産社会においては、各個人が決まった範囲の仕事に制限されず、どんな仕事をも自由に習うことができる。そして社会は生産を統御する。それによってこそ私は今日これを、明日はそれをすることが可能となる。朝は、猟に出かけ、昼は釣りに行き、晩は牛の飼育をし、また食事を批評することもできる。そしてそのために猟師や漁夫や牧者または批評家にならなくてもいい、全部私の望む通りに」。(カール・マルクス、ドイチェ・イデオロギー 1845年)。
これがどのようになるのか、マルクスの説においては、はっきりしていない。
しかし新しい喜びが生まれる。人間は、生命、死、そして神についてもはや質問しないだろう。そういう不必要なものに吸い込まれることによって疎外されることはない。私たちは想像できないほど、調和的にそして幸福に暮らすだろう。かれは新しい人間になる。物からも他人からも疎外されずに。この新生は危機と苦痛とともに行われる。労働大衆は、革命をあえて起こすためにみじめでなければならない。だからマルクスは労働条件を改良する法律に反対する。なぜならこういう法律が必要な展開を遅らせるのだからである。大切なのは、労働者に現状を自覚させ、革命を宣伝し、階級的憎悪を強めることによって歴史のさけられない成行きを助長するということである。
人はこれに協力することができるが、とにかくそういったことはさけられないだろう。人類の伸展は、さけられない法則によって行われる。だから、罪あるいは人の善意の問題ではない。史的な成行きを認めることなのである。資本主義は悪くはないが、消えてしまわなければならない。労働者は良い人でも聖者でもないが、救いを生じさせる立場に立っている。
(中略)
オランダの有名な社会主義者ツルールストラは、1915年に次のように書いた。「史的唯物論は、新しい世界観の要素として大いに役立つのかも知れないが、しかし世界観になるために基準が小さ過ぎ、そのやり方はあまり公正ではない。生産手段の変化の結果を、社会、国家、階級と党派に関する場合には、はっきり照らし出しているが、世界における宇宙の働き、そして人間における深い本能とその有用性は、その社会的分野に入らない。そして人間を個人として片面しか見ない、すなわち社会的能力としてのみ見るのである。これは一定のできごとを社会学的に説明すると、ある程度まで満足が得られるので、宿命論に導きやすい。人の良心を傷つけるあるできごとの必要性を認めさせることができるかも知れないが……結局人の宗教的傾向を満足させることはできない。」
もちろんマルクス主義には、宗教的霊感のようなものがある。いろいろなテーマは、ユダヤ・キリスト教的啓示から取り入れられた。それは最初の目的へ戻ることにあって「霊」なる将来、「信じる」メッセージ、「聖なる民」である党、「今」を「時の完成」と考える観念、「苦しむ救い主」(労働者)。しかしすべてこのテーマは、社会学的内容を持つが、人生窮極の疑問への答えを示してはくれない。
『新カトリック教理 成人への信仰へのメッセージ/オランダ新カテキズム』(J・ヴァン・ブラッセル、山崎寿賀 共訳、エンデルレ書店) p.324-327