HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

社会は社会の原因である



先日のエントリー「バッハとバーリン」で啓蒙主義自然法について、どちらかというと批判的な文章を紹介したが、ベルナール=アンリ・レヴィも興味深い指摘をしている。メモしておきたい。
自然状態というものはなく、自然というものは存在しない、そして、権力以前には「解放」によって社会を改良すべきものは何もない、という命題──その政治的帰結についてレヴィは論じている。
例えば、社会契約というものはない──それは人間たちのあいだの絆を創始した協定というものはなく、したがって、市民の権利といったものもなく、<君主>の義務もない。奴隷化される以前の人間には交換すべきものは何もなく、したがって、人間が交換する権利を持ち、その立場にあるような「以前」というものは存在しなかったことを意味する。
また、社会性の起源に社交性がなかったならば、奴隷には譲りうるどんな「財産」もなく、断念すべきどんな固有の富もないことを意味する。
そして起源が幻ならば、<君主>はけっして自己を正当化する必要はないし、何によっても正当性を与えられない。<君主>の存在という問題自体が意味をなさない。

啓蒙思想家たちの政治学はいう。一方の側には人間性があり、もう一方の側にはリヴァイアサンがいる。思想家(イデオローグ)の任務とはその中間、そのわずかな、壊れやすい空間に陣取り、そこから契約の条項が守られているかどうか見張ることだ、と。


悲観主義政治学はこれを正反対にして、こう言わなければならない。一方の側には個人がおり、同じ側に<国家>がある。一方の側にはリヴァイアサンがおり、もう一方の側にもやはりリヴァイアサンがいる。したがって中間というもの、思想家たちが位置を定め、そこから社会的交換のうえに彼らの名高い批判的監視を及ぼすことができるような仲介的空間というものはないのだ。


「反動家」たちも「進歩主義者」たちも、ともに啓蒙思想という光のなかで、自然法という地平において思考するがゆえに、たとえ方程式の項を逆転させるにしろ、結局は同じことを言う。支配者と被支配者は、対話者となるにせよ反対者となるにせよ、ともかく対面するのであり、共犯者となるにせよ敵対者になるにせよ、いずれにしろある純粋な政治的交換の両極となるのであって、前者はみずからの権利の方便を交換するし、後者はみずからの労力の対価を交換する。あとの場合には<君主>の利益に、そして先の場合には服従する奴隷の利益になるのだ、と。


これにたいし、今日、次のように反対しなければならない。
もし、自然が存在せず、自然法とは罠のことであるとするなら、そこから社会的妥協が結果として生ずるような政治的取り引きはないし、結束することを選ぶような自由な個人はいないし、<国家>とは人間たちの創造でも、人間たちの協議の結実でもないことになる、と。
「社会は社会の原因である」と、『ペルシア人の手紙』のなかでモンテスキューは言った。「存在論的には、全体は部分に先行する」と、『政治学』のなかでアリストテレスは言った。契約があるとすれば、契約者はその契約の同時代人であり、契約の条文を取り決める瞬間に生まれる、とヘーゲルの『精神現象学』は示している。
言い換えれば、被抑圧者は債権者ではないし、圧制者は債務者ではないということだ。<政治的なもの>をそうした術語によって思考しつづけるかぎり、人は何も理解できないだろう。そしてこの意味、ただこの意味においてのみ、自由主義ヒューマニズムの「形式主義」や罠について語ることができるのである。





ベルナール=アンリ・レヴィ『人間の顔をした野蛮』(西永良成 訳、早川書店)p.78-80


お、『人間の顔をした野蛮』を書いた頃のベルナール=アンリ・レヴィの映像が YouTube にあった。マルクス主義について何か言っているようだ(けれどフランス語なのでわからん)。
Bernard-Henry Levy





[関連エントリー]