なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されなければならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。
スラヴォイ・ジジェクのユマニテ紙でのインタビュー「資本主義の論理は自由の制限を導く」を読んで(翻訳してくれたfenestrae様、ありがとうございます)、あいかわらず明快で、挑発的で、時機を得た発言に「説得」され……そうになった。
説得されなかったのは、ジジェクが多分アイロニーとして用いた「中道リベラルは、根本的には、人間の顔をしたル・ペン主義だ」に反応してしまったからだ。この「人間の顔をした」(à visage humain)という言葉は、マルクス主義を批判したベルナール=アンリ・レヴィの『人間の顔をした野蛮』(La Barbarie à visage humain)を僕に思い出させるのだ。
社会主義は、ものを約束するときには嘘をつき、ものを解読するときには誤り、そしてみずからそう名乗っているところの未来においての選択ではないし、またありえないとも言った。だが、私は今、それにこうつけ加えたい。つまり、そうした間違いをおかしながら、社会主義はまた、それなりの具体的な効果を産み出すのであり、たとえ人間たちに幸福をもたらすことができないとしても、幸福をもたらすことができるのだとあくまでも人々に信じさせることによって、不幸をもたらすことができるのだ。この罠はまた、破局にもなりうるのだ。
ベルナール=アンリ・レヴィ『人間の顔をした野蛮』(西永良成 訳、早川書店)p.147-148
ベルナール=アンリ・レヴィのマルクス主義批判とくれば、笠井潔のマルクス主義批判にも触れざるを得ない。
『バイバイ、エンジェル』を引いてみたい。そこでは「観念的な殺人の概念」が提示される。『バイバイ、エンジェル』の犯人(たち)は、「人民」こそが「革命」の敵対者であると断じる。革命のなかにはいつも解き難い矛盾と背理が含まれていた、と。
革命は、胎内に敵対者の罠をはらんでいたのです。その罠とは、<革命は人民による人民のための事業である>という愚昧な命題です。この命題こそが、革命の敗北の根拠なのです。革命そのものとこの命題のあいだにあるものは、決して解くことのできない矛盾と撞着だけです。
そうです。革命と人民は本質的に無関係です。いいえ、あらゆる歴史の現実が露骨に示しているのは、革命の最悪の敵が人民そのものであったという事実なのではありませんか。革命の真の敵は、刑務所や軍隊や政治警察や武装した反革命ではなく、……人民という存在だったのです。乳臭い雌牛みたいに愚かな善意で眼を曇らせた革命家たちは、いつもこの露骨な真実に無自覚でしたが、人民はこのことを小狡い臆病な獣の本能で熟知していました。
(中略)
革命が果てなく永続する敗北の宿命から解放されるためには、自身の背理を徹底的に自覚しなければなりません。人民という名の迷妄を胎内から引きずり出し、渾身の力で醜い肉塊となるまで踏み潰さなければなりません。これだけが、真実の、最後の革命を可能にする唯一の道です。
『バイバイ、エンジェル』p.358-359
「犯人」は、「人民」を次のように定義する。
<人民>とは、人間が虫けらのように生物的にのみ存在することの別名です。日々、その薄汚い口いっぱいに押しこむための食物、食物を得るためのいやいやながらの労働、いやな労働を相互の監視と強制によって保証するための共同体、共同体の自己目的であるその存続に不可欠な生殖、生殖に男たちと女たちを誘い込む愚鈍で卑しげな薄笑いに似た欲情……。この円環に閉じこめられ、いやむしろこの円環のぬくぬくした生温かい暗がりから一歩も出ようとしない生存のかたちこそ<人民>と呼ばれるものなのです。
『バイバイ、エンジェル』p.360
人民は自然の状態であり、あるがままの現状をべったりと肯定する。「卑しい食欲を満たすため支配的な集団にパンを要求して暴動化し、秩序の枠をはみ出していくように存在しようと、どちらにせよただの自然状態であることに変わりはありません。
だから人民は、本質的に国家を超えることができないのです。国家とは、自然状態にある個々の人間が、絶対的に自己を意識しえない、したがって自己を統御しえないほどに無能であることの結果、蛆が腐肉に湧き出すように生み出された共同の意志だからです。制度化され、固着し、醜く肥大した観念、生物的存在と密通し堕落した観念、これが国家だからです。
『バイバイ、エンジェル』p.361
「犯人たち」の理論によれば、<人民>と<国家>は永遠の共犯者なのである。人民は、国家の足元で「生物的な殺人」に還元される「利害抗争」に明け暮れる。一方、「生物的な殺人」、つまり個と個、共同体と共同体の利害対立による抗争と対峙するのが「観念的な殺人」である。「観念的な殺人」は、
たとえていえば、友に殺人と人肉喰いの罪を犯させないために、あらかじめ彼を殺害する男の行為に本質的に近しいものなのです。
『バイバイ、エンジェル』p.360
したがって彼らの「綱領」は、国家と人民の廃止である。
それはまた、文明と社会の究極の、最終的な破壊でもあります。文明そして社会とは、国家と人民の永遠の共犯体制の別名なのですから。……社会という鈍重で粘りのある惰性態を放置する限り、人間の<人民>化は不断に強行されるものです。そして国家がそこから不可避に成長することになります。また文明とは、人間の生活の組織化の原理です。喰い、性交し、労働し、共同体を存続させるという事実を、人間の本質であると錯覚する膨大な構造体系。わたしたちは、これら一切を跡形なく粉砕しなければなりません。
『バイバイ、エンジェル』p.365
彼らは「国家の弱体化」と「人民の流動化」が与えられるのを待ち望む。そこにおいてこそ、「論理的なものへの意志」によって、革命の主題が鮮烈に表現されるからだ。
ただし彼らは「愚かな髭面のユダヤ人=マルクス」やその使徒たちのように<国家>に身を売ることを否認する。
あらゆる革命は、人民に拝跪することによって国家に粉砕されるか、国家に拝跪することによって人民を奴隷化するか、つまり敗北か堕落かのいずれかに逢着したのでした。しかし、これはただ、人民と国家とが革命にとって二重の敵であることを理解しなかったために惹き起こされた結果に過ぎません。わたしたちは、違います。
『バイバイ、エンジェル』p.363
しかし、それこそが──その否認が「否認」である以上──つまり「犯人たち」の実践こそが、マルクスの理論を完成させることだと、矢吹駆は看破する。
「……しかし、それでは、果たしてあなたの考える革命とはどんなものなのでしょう」
「世界に向かって放たれた観念の炸裂です」
(中略)
「……観念は、自ら炸裂し一瞬のうちに世界に充満した無意味な闇をあかあかと照らし出す閃光なのです。
『バイバイ、エンジェル』p.361
われわれはこうした別の選択を考えることが不可能な状況にある。しかしまた、われわれは爆発に近いところにいるとも私は思う。レーニンにおいてすでに、真のユートピアは緊急の観念と結びついていた。ほかにやりようがないと思った瞬間に人はユートピストとなる。
彼らは、<権力>の網をのがれるようなある現実を措定し、<権力>が身を引き離さざるをえないような現実性に賭け、<権力>の意志が押印されていないようなある場を妄想する。彼らもまた、<権力>の無限の力を見くびり、<権力>の武器によって害されていない場というものはなく、<権力>の装置によって展開され、線引きされていないような現実はないことを忘れているのだ。
脱走せよ、早くよそに逃げ去れ。これが、ヴァンセンヌ実験大学からコレーズのような片田舎まで漂流する放浪者にして頽廃派、われわれの新しいユートピア主義者たちの標語である。
ベルナール=アンリ・レヴィ『人間の顔をした野蛮』p.62
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