HODGE'S PARROT

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アイドル=排泄物、信じるということ




別に意味もなくスラヴォイ・ジジェクを引用したくなった。なぜだろう。

快楽の転移
宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。


こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。
つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。



(中略)



したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。
ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。
これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。




スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』(松浦俊輔+小野木明恵 訳、青土社)p.146-147

信じるということ (Thinking in action)
直接に見える外見は、無定形のうんこなのだ。


(中略)


しばしば見過ごされている点は、この<他者>に与えられる自分自身のかけらは、<至高>と──愚劣ではなくまさに──排泄物の間を過激に振動する。だからラカンにとって、人間を動物から区別する特徴のひとつは、人間にとってはうんこの処理が問題になるという点だ。悪臭がするからではなく、それが自分のいちばん奥底から来ているからだ。われわれがうんこを恥ずかしいと思うのは、そこに、われわれの奥底にある内面が露出/外在化しているからだ。




スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』(松浦俊輔 訳、産業図書)p.62-63

脆弱なる絶対―キリスト教の遺産と資本主義の超克
ここで問題になっている差異は、ラカンの用語でいえば、理想化と崇高化の差異である。誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。




スラヴォイ・ジジェク『脆弱なる絶対』(中山徹 訳、青土社)p.182

幻想の感染
ラカンは、「精神分析の倫理」というセミナーの中で、現代人の二つのタイプ、愚者(フール)と無頼(ネイヴ)の違いについて詳述している。

「愚者」は無垢で、単純だが、この「愚者」がときに道化の刻印をまとっているという事実のおかげで、その口から発せられる真理は容認されるだけではなく、用いられるもする。私の見るところでは、左翼知識人の重みを説明するのは、同様の幸福な影、同様の根本的な「愚かな言動」である。


これと、同じ伝統によって厳密に現代用語、先の愚者と関連して用いられる用語を与えるものについての呼称と対比しよう。すなわち「無頼」である。……無頼はその姿勢に含意される一種のヒロイズムのある皮肉屋ではない。正確に言うと、スタンダールが「純然たる悪党」と呼んだものである、つまり、おなじみの凡人に他ならず、ただ個性が強くなった凡人である。
誰もが知っているように、無頼の自分の見せ方は右翼知識人のイデオロギーの一部をなしていて、それはまさに私は「無頼」ですよという役を演じているものである。言い換えれば、彼はリアリズムと呼ばれるものの帰結から退却せず、必要なら自分は悪党だということを認めるということである。


要するに、右翼知識人は無頼であり、所与の秩序の根拠として、ただそれが存在するということだけを言う体制派であって、左翼をその「ユートピア的」計画について、そんなものは必ず破滅すると言ってばかにする。それに対して左翼知識人は愚者であり、現存の秩序にある嘘を公然と見せる道化であるが、その見せ方がその言葉のパフォーマンスとしての実効性をなくすようなものである。




スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔 訳、青土社)p.74

身体なき器官
ベイルートでのサブラとシャチーラの虐殺の一週間後にレヴィナスが、ショーロモ・マルカとアラン・フィンケルクロートとともにラジオ放送に参加したときにやらかした有名な大失態を思い起こして欲しい。


マルカはレヴィナスに次のような明らかに「レヴィナス的」質問を行っている──エマニュエル・レヴィナス、あなたは『他者』の哲学者です。歴史は、政治は、まさに『他者』との出会いの場であり、またイスラエルにとって『他者』は何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。
この質問にたいしてレヴィナスは次のように答えたのだ。

他者についての私の定義はまったく異なっています。他者は必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人も受け容れることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? とすれば、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が誤っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。

この発言に潜む問題は、潜在的シオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から世俗的な常識的反省への思いも掛けないシフトである。レヴィナスが言っている基本的問題は、原則的としては、他性への敬意─顧慮は無条件のものでありながら、具体的他者に直面すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。
要するに、実践政治では、他性への敬意─顧慮は厳密には何も意味していないのである。




スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社)p.207-208

Organs without Bodies: Deleuze and Consequences
謎に充ちたメッセージにラカンが与えた名前は、母の欲望である──母の愛撫に子供が感じ取る測りがたい欲望が、それである。誤解を招くラカン入門書」のトレードマークは、それに引き続く象徴的な父性機能を母─子供という二者関係の想像的な共棲的至福の攪乱と理解し、それを(象徴的)禁制の秩序(すなわち秩序それ自体)へ導き入れる侵入者と捉える点にある。こうした誤解に対抗して、次のように主張されねばならない。すなわちラカンにとって「父」とは、トラウマをもたらす侵入者に与えられた名前ではなく、そうした侵入の行き詰まりへの解決策、すなわち謎への解答なのだ。


ここでの謎とは、言うまでもなく、母─他者(m)other の欲望の謎(私は母にとって明らかに不十分である。だから彼女がよりも実際にもっと欲望しているものとは何か?)である。




スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』 p.199

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核
「肛門特性」は次のようにしてはじまる。子供が排泄物を自分のもとに残しておきたいと思い、それを要求されても引き渡すのを拒む。なぜなら、その子は、自分の好きなように排泄物を保持するという剰余享楽を奪われたくないからである。




スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人』(中山徹 訳、青土社)p.61

The Metastases of Enjoyment: Six Essays on Woman and Causality (Wo Es War)
それゆえ、<貴婦人>を理想化すること、崇高なエーテル界の<理想>へと高めることは、全くの二次的な現象であるととらえるべきである。これは<貴婦人>のトラウマ的特徴を見えなくする機能をもつナルシズム的な投影である。


まさしくこうした狭義の意味において、ラカンは、「宮廷恋愛のイデオロギーの中に明確に見いだされる理想化と崇高化の原理は、基本的にナルシズム的な意味をもつ」と認めている。
<貴婦人>はすべての現実的な実体をはぎとられ、主体がナルシズム的な理想を投影するための鏡としての機能を果たす。




スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』 p.148

On Belief (Thinking in Action)

「悪魔は細部に宿る」という言い回しは誰でも知っている。





スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』p.103