HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

「メタ・差別」としての「やおい」

スラヴォイ・ジジェクの「『アンダーグラウンド』―あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」を読んで。
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/zizek_J.html

これまで、ラカンジジェクについては、精神分析という「躓きの石」のため批判的にしか読めなかった。が、ジャック・ラカンの(もちろんジジェク経由による)「メタ言語はない」というテーゼは、「やおい」における<差別性>を分析するのに非常に役に立つのではないかと思うようになった。

なぜならば、「やおい」が「同性愛関係」を扱っている以上、一見それは「親・同性愛」という<身振り>をどうしても──非・同性愛者=異性愛者のみならず、同性愛者に対しても──見せるからだ。

しかしそんなことはない。
ここ(http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050102#p1)でも書いてきたように、「やおい」の差別性は、その「メタ・やおい」ともいうべき「やおい論」において、明瞭に見いだせるものだ。むろん、ジジェクが批判する「短絡性」の罠には、十分気をつけなければならない──すなわち「すべてではない」と。

したがって,まず最初に為すべきことは,ある眼差しを問題にすることである。


スラヴォイ・ジジェク「『アンダーグラウンド』―あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化

まず、なぜ、「同性愛を扱ったモノ」を「やおい」と呼ぶのだろう。
やおい」という<言葉>には、「やまなし、おちなし、意味なし」というネガティヴな<意味がある>だけではなく、「やめて、お尻が痛い」その他様々な<差別的・侮蔑的>「ヴァリアント/ヴァリエーション」を<産出>してきた。「負のコノテーション」を大いに<享楽>してきた。

これに対し、「異性愛を扱ったモノ=非やおい」についてはどうであろうか──「ノーマル(正常)」の一言だけである。

この非対称性、階層性、二項対立性は、差別以外の何であろう?

しかも「やおい論」においては、「なぜ、やおい、なのか」という──ジジェクに言わせれば、「嘘っぱちの、自己弁護の、社会学者気取りの」──「理由」が書かれているだけだ。

やおいは「男と男の愛」であるという、その「異常性」の一点にだけ依って立っている。


高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

まったく、これこそ「メタ言語はない」ということを如実に(その嘘を、その<真実>を)現している──すなわち差別という<真実>を。

ドイツにおけるスキンヘッドのネオナチ信奉者は,外国人に対して暴力を振るう理由を尋ねられると,社会的流動性の減少,治安の悪化,父権の崩壊などを引き合いに出して,突然ソーシャル・ワーカーか社会学者か社会心理学者になったかのように語り始めるが,これこそ「メタ言語は存在しない」と言ったときにラカンが念頭に置いていたことである.スキンヘッドたちの主張することは,それが事実として正しいにも拘わらず,あるいはより正確には,事実として正しい限り,嘘なのである.


スラヴォイ・ジジェク 同上