例の小林泰剛容疑者による少女監禁事件。この事件そのものについては、あまり関心がない。また、この事件がキッカケとなって、いわゆる「エロゲー」などポルノグラフィーへの表現規制が「問題化」されてきているが、僕個人としては、「性表現そのもの」を規制する必要はまったくないと思っている──だから欧米と同様に、性器への修正はやめるべきだ、ただし、「ゾーニング」はある程度必要だと思う。
一方、「差別表現」についてはもっと真剣に「問題化」すべきであるし、していくつもりだ。「差別表現を基準としたゾーニング/レーティング」こそが必要だと、最近感じてきている。したがって、あまりに「性表現」(の有無)ばかりにこだわりすぎることは、その陰で「差別表現」の<問題性>を見逃すことになるのではないかと危惧している。それは「性表現」さえなければ何をしても「構わない」、つまり「差別表現」を乱用しても──それが例え子供向きのマンガであっても──「構わない」という<雰囲気>への危惧だ。
人を傷つけ、人格を貶めるのは、「性表現そのもの」ではない。「差別表現」である。さらに問題なのは、差別を許す環境、すなわち、<公に>に「差別を容認」することである。
耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。
スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』(松浦俊輔+小野木明恵訳、青土社)
ここで確認しておきたいことがある。それは、反表現規制の文脈で提示される、「ファンタジー=ポルノ」と「現実」の乖離、すなわち「現実と幻想の<混同>」は、本当に起こらないものなのだろうか、ということだ。両者の間には、本当に、影響関係は生じないものなのだろうか。キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンらのポルノグラフィー分析は完全に間違っているのだろうか。
僕はそうは言い切れないと思う。
ここで「はてなダイアリー」のキーワード「やおいとは」を見てもらいたい。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a4%e4%a4%aa%a4%a4?kid=4565
問題はここだ。
また元来同人誌等(副次的)創作物の総称であった筈が拡大解釈され、現実の男性同性愛文化をもやおいの延長線上で捉える人々がいる
「現実の男性同性愛文化をもやおいの延長線上で捉える人々がいる」とは、要するに、ファンタジー=ポルノと現実社会に生きている「生活者としての同性愛者」を<混同>する・してしまう・しても「構わない」という人々が存在する、ということだ。「ポルノ」の<情報>でもって「現実」を捉える人々がいる、ということだ。ファンタジー=ポルノの世界を、当事者たちは<望み>もしないのに、押し付けても「構わない」と<判断>することだ。
僕は、(そのときと少し変わっているが)この部分を読んでアタマにきて、以下のテキストを書き加えた。
しかし、だからといって、「やおい」のようなネガティヴでバカにしきった<言葉>を、「現実の同性愛関係一般」に使用・適用することに何の問題もないと言い切れるのだろうか。
「異性愛」はそのまま「異性愛」あり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、なぜ、「同性愛」は「同性愛」のままではなく、「やおい」と呼ばれなくてはならないのか。なぜ、同人誌等の「内容」と「生活者としての同性愛者」が「同一レベル」で語られなければならないのか。それこそ差別を温存する態度ではないのだろうか。それこそ日本独特の「陰湿な差別形態」ではないのかだろうか。
しかし僕の書いたこの文章は、「やおい関係者」によって、<検閲>され、<削除>された。
僕の言いたかったことは、ファンタジー=ポルノである「やおい」が、「現実の同性愛」と<混同>、あるいは<同一視>──それが無意識であれ、意図的・恣意的であれ──されることへの危惧だ。異性愛者=非当事者による「ステレオタイプ」の(再)生産と、蔑称・侮蔑語の<公然たる>使用、つまり差別の「容認」へと繋がることへの危惧だ。
誰かの謀略だと言っているわけではない。謀略である必要はないのだ。個人や家族と同じように、社会に必要な作り話・虚構を語る。ヘンリク・イプセンはそれを「必要嘘」と言った。心理学者のダニエル・ゴールマンは、作り話は社会レベルでも家庭内と同じように機能すると言う。「恐ろしい事実から関心を逸らすことによって、あるいは、その意味を受け入れやすい体裁に包み直すことによって、共謀は維持される」と。こうした、いわば社会の盲点の行き着くところは、結局、破壊的な集団幻想以外の何ものでもない、とゴールマンは書いている。女性の可能性が果てしなく広がって、男性支配の文化が依存している制度慣習を今にも揺るがすのではないかというところまできた。すると、男女双方の側にパニックのような反応が生まれ、それが反動的な映像への需要を生み出したのである。
その結果生まれた幻想は、女性にとってまったく現実のものとして実体化される。もう単なる観念ではなく、三次元の立体となって、女たちの生きざまをとり込んでいく。
ナオミ・ウルフ『美の陰謀』(曽田和子訳、TBSブリタニカ)
「やおい」における「語られかた」は、すなわち、「現実の同性愛」の「語られかた」に<影響>を与えるのではないか。「やおい」におけるホモフォビアは、すなわち「現実の同性愛者」への差別助長に反映するするのではないか。同性愛差別を「容認」する<雰囲気>を生み出すのではないか。
「やおい関係者」は、いまだに、同性愛関係を「やおい」と呼び、異性愛関係を「ノーマル(カップル)」と呼んでいる。まるで自分たちの「正常性」を同性愛者の「異常性」の<反照>として確認するかのごとき態度で。
メビウスの帯のように、部分と全体は一致し、「本当に」平和に暮らしているわれわれと、できるだけ平和に暮らしているようにふるまおうとするサラエボの住民たちとの間に、明確でまぎれのない境界線を引くことはもはや不可能になる──ある意味で、われわれもまた平和を模倣していて、平和という虚構を生きているのだということを認めざるをえなくなるのだ。サラエボは孤島ではない。平常という海の中の例外ではない。それどころか、サラエボは、他ならぬ平常の方が、共通の戦争の中の虚構の島だという寓意なのだ。犠牲者に烙印を押すことによって、つまり犠牲者を二つの死の間の傷ついた領域に位置づけることによって、理解しにくくなっているものなのだ。犠牲者は賤民であるかのようだ。聖なる幻想空間に閉じ込められた、一種の生きながらの死者であるかのようだ。
スラヴォイ・ジジェク『快楽の転移』
「正常性」という<虚構>を生きているのは、いったい、誰か。「異常性」という<幻想>を産出し、そこに<他者>を閉じ込めているのは、いったい、誰か。
「差別表現」は、特定の人々を「より価値の低い存在」だと思わせ、それを「正当化」する<イデオロギー>に他ならない。
現実の女性の顔や声や身体を認めず、また女性というものの意味を、果てしなく再生産されるこうした「美」の映像に変えてしまうことによって、社会秩序がみずからを守らなければならないと思うのはなぜなのか。無意識の不安が「必要嘘」をつくり出す強力な要因であるにしても現実には経済の必然がその嘘を保証する。奴隷制度に依存する経済は、奴隷制度を「正当化」する奴隷のイメージを広める必要がある。今日の欧米経済は、継続的な女性の低賃金に依存しきっている。フェミニズムのおかげで、女たちはみずからをより価値の高いものと思いはじめた。それに対抗するためには、自分たちは「より価値の低い」存在だと女たちに思わせるイデオロギーが早急に必要だったのだ。それには謀略など必要ない。雰囲気だけで十分なのだ。
ナオミ・ウルフ『美の陰謀』
今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。
スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔訳、青土社)