HODGE'S PARROT

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眼差しは見られるのです 精神分析が群がる「少女」たち




aburaxさんという方が、

という記事で僕の「やおい」に関するエントリーを引用してトラックバックをくれたそうなので、そのエントリーをまとめておきたい。というのも「「やおい」は異性愛の症候である」が最近ブックマークされたが、これは、実は、続きもののエントリーの一部であって、「言いたいこと」はこれだけじゃないんだな、という気がするからだ(それと僕は「倒錯」という言葉は、「他人」に対して使う場合、それは「差別語」=人権侵害だと認識していることをあえて付け加えておきたい)。



以下にその関連エントリーをまとめて転載する。




異性愛の特権的シニフィアン、つまり異性愛(者)の喜劇=やおい

精神分析は何をしたというのか。何よりも、フロイトは何をしたというのか。小さい秘密を公のものとし、それを公然の秘密とする医学的手段《つまり、精神分析オイディプス概念》を見いだすことで、性欲をこの小さい秘密の致命的な軛の下につないだという以外に、いったい何をしたというのか。ひとはわれわれにこう語る。さあ、ごらんなさい。これこそがまさに正常なんです。すべてのひとがこうなんです、と。



ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社

ミイラ取りがミイラになったわけではないが(否認)、「異性愛を研究」するためには、「同性愛に偽装」した「異性愛物語」=「やおい」を、異性愛中心主義(ヘテロセクシズム)である「精神分析」で<分析>することによって、そこにおいて「ヘテロセクシュアルな欲望」が可視化されるのではないか。

例えば、精神分析は、臨床(例)のみならず小説や絵画の解釈において、「潜在的同性愛」を<暴くこと>をその解釈の<到達点>にしていることが、よくある。なぜ、同性愛を<暴くこと>がそれほどクライマックス/スペクタクルになるのか。それは異性愛の分析家が、不幸(アン・ハッピー)は、同性愛的欲望にあるからだ、と一方的に決め付けているからだ。つまり、同性愛は不幸なもの(アン・ハッピーエンド)であると、予め、コード化されているからだ、そのように構築され、そのように流布され、そういった言説が広められているからだ──それは異性愛の優位と異性愛者の「利益」を保障している。

精神分析が「観客=異性愛者」に対する、「(ギリシャ)悲劇」の再演という<興行>だからだ。

では、「潜在的異性愛」という<概念>は可能だろうか。そう、もし、精神分析家が同性愛者ならば、同性愛を装った「偽同性愛物語」について、そのことを指摘できるかもしれない……「やおい」が「スペクタクルなし、クライマックスなし、シニフィエなし」と総称されるものであっても、逆説的に。

例えば、「やおい」における「ハッピーエンド」、すなわち悪名高い「レイプされてハッピーエンド」は、「潜在的異性愛」の欲望に則っている、と<解釈>できるのではないか。(字句的にも)「幸福(ハッピーエンド)」なのは、不幸の徴(徴候)である「潜在的同性愛」と見事に対照を成している。

私がここで申し上げたいのは、主体が自らの分裂から得る利益は、この分裂を決定しているものと、すなわち現実的なものの接近自体によって引き起こされる何かの原始的な分離や自己切断から現れ出る特権的な対象と、結びついている、ということです。そしてこの対象の名前は、我々の代数式では対象「a」です。

主体とは本質的な動揺の中で幻想に吊り下げられているようなものですが、視る関係においては、その幻想が依存している対象は眼差しです。眼差しの特権は、そしてまた主体があれほど長い間自らをこの依存の中にあるものとして認めずにいることができた理由も、眼差しの構造そのものに由来しているのです。



ジャック・ラカン精神分析の四基礎概念』(岩波書店

もちろん僕が「やおい」で問題にしているのは、特に「やおい論」において、どうして同性愛差別・侮蔑言説が平然と──意識的にせよ無意識的にせよ──看過されているのか、だ。そのことにつきる。

もしかして、それは、「やおい」を語ることが、既にして「同性愛嫌悪」に依存しているのではないか。セジウィックの「ホモソーシャルな欲望」やスラヴォイ・ジジェクの「リビドー基盤の検閲」が、そこに──「やおい」を語ることにおいて──あるのではないか。

(単純な例では、「同性愛関係はない」もの、つまり「やおい」では<ない>ものを、「ノーマル」と呼ぶこと。そこには同性愛を「異常視」する<視点>が、そして異常視しても<構わない>という「彼らの絆」が明白に見て取れる)

そして、だからこそ、「やおい」が「ゲイ・フィクション」や「同性愛物語」と<区別>され、「やおい、として」存在しているのではないか。

ファンタジーという概念が存在論的に曝露するスキャンダルは、それが「主観的」と「客観的」といった月並みな対項を顛覆してしまうという事実に潜んでいる。もちろんファンタジーは、その定義から言っても、(「主体の知覚から独立して存在している」といった素朴な意味で)「客観的」なわけではない。それはまた、(主体が意識的に経験する直感に還元可能であるという意味で)「主観的」なわけではない。むしろファンタジーは、「客観的主観性という奇妙な範疇──自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的には事物が本当にそのように見えてしまうといった奇妙な有り様」に属している。

例えば私たちが、意識的にはユダヤ人に穏当に対処できる者がその裡に自分自身では意識的には自覚していない根深い反ユダヤ主義的な偏見を隠し持っていると主張するとき、そうした主張は、これらの偏見が、ユダヤ人が本当にそうで有るあり方ではなく、ユダヤ人が彼にそのように見えるあり方を表現するという限りで、彼が自分にとってユダヤ人が実際にどう見えているかを自覚していないということを意味してはいないだろうか?



スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社


「やおい」は異性愛の症候である

「女は男の症候である」というのは、後期ラカンの最も悪名高い「反フェミニズム的」テーゼのひとつだろう。しかし、われわれがこのテーゼをいかに読むべきかについては根本的な両義性がある。この両義性はラカン理論内部における症候の概念の変化を反映している。もし症候を、ラカンが一九五〇年代に定義したようなもの──暗号化されたメッセージ──として捉えるならば、もちろん女=症候は記号として、男の敗北の具体化としてあらわれ、男が「自分の欲望に負けた」という事実を証明する。フロイトにいわせれば症候は妥協の産物である。主体は症候において、自分の欲望についての真理(彼が直視できなかった真理、彼が裏切った心理)を、暗号化された判読不能なメッセージとして受け取る。



スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房

「同性愛関係はない」異性愛物語=「やおい」が、とくに同性愛者を不快にさせるのは、<言語>を通じて──つまり象徴界の参入を経ることによって──語られる「やおい、について」である。つまり「やおい」<そのもの>ではなくて、「やおい論」においてである。そこでは、「社会規範(象徴界)」への<裏口入学>を果たすべく、同性愛者を侮蔑し、差別する「言説」を──意識的にせよ、無意識的にせよ──「担保」にする。ゲイ男性を貶めることによって、自らの<正常性>を主張/獲得する。

そう。その<裏口入学>への<賭金>が、現実(リアル)の同性愛者への差別・侮蔑という形で徴候される「卑劣な手段」なのである。

やおいに傾倒している少女に、『さぶ』などのまともな同性愛雑誌を見せてみればいい。100人中99人が、「いやっ! 気持ち悪いっ」と叫ぶだろう。その意味では、「男同士の愛」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。



高城響 『「やおい」に群がる少女たち』(朝日新聞社ジェンダー・コレクション』

このロジックは非常に明快である。もし「やおい」の<観客>の多くが女性ならば、メラニー・クライン流の「良い対象(乳房)、悪い対象(乳房)」の<選択>に相当するだろうし、クリステヴァのアブジェクト(おぞましきもの)のアクジェクション(棄却)を理論付ける。つまりエディプス・コンプレックスを通過した<主体>が、巧妙なタブー構築によって非合法対象(と看做される対象)を排除しようとするものなのだ──それによって<女児=彼女>は象徴界への参入を図る。

一方、このリアルな同性愛雑誌──というより、これはゲイ・ポルノだろう──を見せるという「行為」は、ジジェクの<対象a>の説明を敷衍するならば、「快感原則」の「閉じた回路」を狂わせ、無理やり「世界に眼を向けさせ」ることに相当するかもしれない。したがって、この「行為」こそが<現実(リアル)>に至らせる「操作」であり、「現実の同性愛雑誌」は<対象a>としての──余剰としての──機能を果たしている。

われわれが「(外的)現実」と呼ぶものは、「拒絶」という原初的行為によってみずからを作りあげる。すなわち主体はその内在的な自己妨害を「拒絶」し、欲動の対立の悪循環を、欲動の要求とそれに対立する現実の要求との「外的」対立へと「外在化」する。



スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』

ただし、ここで留意しておきたいのは、「ゲイ・ポルノ」は、<ゲイ以上のもの>であるという認識だ。ポルノの世界は、むろん異性愛でもそうだが、<同性愛/異性愛以上のもの>を含んでいる。「リアルそのもの」の中にある、常に「余剰」を孕んだ「リアル以上のもの」。そして、高城は、どうやら「同性愛の現実」を「同性愛の過剰な現実であるポルノ」への移行を通して、自らの理論──何が<正常>で、何が<異常>であるかという理論──に必要な「拒絶反応」を導いているように思える。

ここにイデオロギーめいたもの、いや、イデオロギー<以上のもの>を感じる。



以下、こういった「やおい論/言説」から、遡及的に「やおい<そのもの>」が導きながら、「やおい論というもの」が果たしている<役割/イデオロギー>を考えてみたい。

ラカンが一九五〇年代に初めて排除の概念を導入したとき、それは、ある鍵的シニフィアン(クッションの綴り目、父─の─名)が象徴秩序から排除されるという特殊な現象──それが精神病の過程の引き金となる──を指していた。この段階では、排除は言語そのものに特有のものではなく、精神病現象の際立った特徴であった。そして、ラカンによるフロイトの再公式にしたがえば、<象徴界>(シンボリック)から排除されたものは、たとえば幻覚現象という形をとって、<現実界>(リアル)の中に回帰するのである。



スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳、河出書房新社

もっとも、単純に考えれば、「やおい論」が<象徴界>に位置するものなら、「やおい<そのもの>」は、<想像界>に位置していると思われる。それは前─エディプス期の出来事として<充足>している。そこにおいては、ファルス(男根)は男児にとってはペニスであるし、女児にとってはクリトリスである。

クリトリスという<ファルス>を持つ<主体>は、ナルシシズムの領域(想像界)で、自らの<欠如>を奪取すべく、攻撃的な闘争(レイプ)を繰り広げる──しかし、それは、あくまでデュアル(双数)な関係(カップリング)であることに留意しておきたい。

しかし、問題はなぜそれが「男同士」になるのか。容易にヒントを与えてくれるのは古典的なセクシュアリティの<フィクション>である。

……いまだに精神分析の教科書の解説に散在している、初期の理論の名残の一つは、幼児期の性欲の男根期の本質が自慰(マスターベーション)であり、そして去勢コンプレックスの本質が、去勢という罰による両親の(特に父親の)威嚇によって自慰が抑圧されることにあるとする概念である。また(去勢コンプレックスと不可分の定義である)女性の男根羨望を、少女が自慰という目的のためには女性の陰核(クリトリス)は男性の陰茎(ペニス)よりも劣っていると受けとるためであるとする説明もこれに関連している。



N・O・ブラウン『エロスとタナトス』(秋山さと子訳、竹内書店新社)

この「女性によるペニス羨望」は、上記の「やおい論」においても、そのものズバリ論じられている。

女性、特に少女のなかには、男に対する強い憧れがある。男の腕力、体力。男に与えられる社会的な地位や特権。さらに、ベッタリと密着したものになりがちな女同士の友人関係とは違う(ように見える)、カラッとした「男の友情」。隣の芝生は青い。少女たちはそれらに憧れ、自分もそうなりたいと夢想する。



高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

もちろん、この「ペニス羨望」並びに「やおい論」は、あくまでも象徴秩序に則った後付の「説明」であることを忘れてはならない。「やおい」を<正常なもの>として偽装する方便だということを忘れてはならない。もっと言えば、「やおい論」は、ヒステリー的な主体的立場の欺瞞でしかない。




中二階からの眼差し、性交したゴカイ

やおい論」において、「やおい」を「少年愛」と近しい<位置>におくロジックがときどき見られるが、しかし「<その>少年愛なるもの」は、誰がどのように定義したものなんだろうか。

イデオロギーにおいて「知らない主体」がとる形の一つが、われわれの腐敗した文明にまだ汚染されていない世界に住む「高貴な野蛮人」という神話である。ここでは文明化された西洋人が典型的な強迫神経症の経済に従う──われわれはどんな犠牲を払っても「高貴な野蛮人」を無知の状態に保ち、われわれの堕落した知識に触れさせてはならない、さもないと彼らの幸福な生活が崩壊してしまう。



スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房

ジジェクは、「知らないはずの主体」が取る「保護意識」の欺瞞をオルダス・ハックスリーの『滑稽な海賊』を引いて説明する。

ハックスレーはその中で、イギリス人が、古い伝統を守り、われわれの生き方の圧力に抵抗するインド人の知恵を賞賛し、下品な物質主義と功利主義に毒されたわれわれには手の届かない、彼らの底知れぬ精神的な深みを高く評価するさまを描いている。だが、耐えがたい不安と反感を掻き立てるのは、われわれの知識と技術にわれわれ以上に熟達するインド人である。要するにわれわれはすでにインド人の中に「根源的他者性」を認めているのである。真の恐慌を起こすのは、インド人の過剰な類似、すなわち彼らが「われわれよりもわれわれらしくなる」点である。



スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』

この「人種差別的視線」は、巧妙に「毒」が薄められている。まず、自分たちを「被害者」の地位におく。そして、一見、相手を<賞賛>するような手筈を整える。

しかし、<彼ら>が<自分たち>と<同じレベル>であることは、決して認めない──認めてはいけない。「われわれよりもわれわれらしくなる」ことに気づくと、彼/彼女は、「恐慌」を引き起こすのだ。

このことは、高城響の「やおい論」にも伺える<視線>だ。

http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20041223#p1 で引用した続きが、以下である。

だが、普通の「男同士」の世界には、彼女たちは性が異なるので入れてもらえない。そこで彼女たちは、やおいに目をつけたのである。「男を愛する男」、男であっても「異端」であり、差別される「弱者」である存在。そして、「弱者」という点で彼女たちと「男を愛する男」は同類であり、共感できる存在なのである。

(中略)

作品のなかの「弱者」に感情移入することによって、少女たちはあたかも自分が「男になれた」ような満足感を味わう。



高城響 『「やおい」に群がる少女たち』(朝日新聞社ジェンダー・コレクション』

ここで、「視線/眼差し」の動きに注目したい。まず<彼女>は、「ペニス願望」を理論付けるような「自分より<上にいる普通の>男」を眼差す──憧れ、そうなりたいと夢想する。

次に、「<弱者である>同性愛の男」を眼差す──弱者として<見下ろし>、そして、共感する。

いったい、「異端」であり「弱者」であるという「男を愛する男」とは、誰が、どのように定義したものなのか。「根源的他者性」を構築しているのは、誰か。<男>を強者と弱者に二分して、その統合を、自分に都合よく、図る──これは一種の弁証法ではないか、言うまでもなく男根的な、「要求」を孕んだ。

スピルバーグ太陽の帝国』の)ジムは、中国人の日常生活の悲惨と混沌を、親のロールス・ロイルの窓を通して、いわば映画のような「投影」として、つまり自分自身の現実とはまったく連続していない虚構的な体験として、眺める。その壁が崩れたとき、すなわち、それまでは近づかずにいた忌まわしい悲惨な世界の中へと投げ込まれたとき、生存の問題が始まる。ジムは最初、この現実喪失、この<現実界>との遭遇にたいして、ほとんど無意識に、象徴化の初歩的な「男根的」身振りを繰り返す。すなわち自分のまったくの無能性を全能性へと逆転し、<現実界>の闖入の根本的責任は自分自身にあると考える。



スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社

さらに上記の「やおい論」では、「やおい」と「耽美」を区別する。「耽美」の原点は「少女たちの心理に自らの性からの逃避という心理作用が働いている」

女という自己の性への嫌忌。「自分=女は美しくない」という観点から始まって、「では美しいものは何か。それは少年、とりわけ美少年であり、彼は男性に愛されてしかるべきである。美少年はその資格をもっている」というところから、耽美は生まれている。愛しあう二人がともに男でなければ、成立し得ないのだ。



高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

この説明を読んで、どうして「やおい」と「耽美」が区別されるのかが、わからない。「女という自己の性への嫌忌」は、「やおい」の説明にもあった「ペニス願望」とどう違うのだろうか。「自分にはペニス(美)がない」→「少年にはペニス(美)がある」。

要するに、「耽美」と呼ぼうが、「ボーイズラブ」と呼ぼうが、それらは、基本的に、「同じ構造」ではないのか──その「構造自体」は「やおい」に「毛の生えた」程度のものではないのか?

何より、<美>が問題ならば、「美少女」でも良いはずだ──ここには、レズビアン(同性愛)の視点が排除されている。もちろん、「美少年」ならば、「(大人の)美女」に愛されても良いはずだ。

それより気になるのは、「耽美」にせよ「美少年」にせよ<美>という言葉の頻出だ。「美少年/美少女」に<美>があるのは、それこそトートロジーである。高城の説明によると、男性に愛されるのは「美少年」であるという<資格>を有するらしい──いったい誰がその<資格>を<資格付ける>んだ。

とするならば、「耽美/やおい」とは、そして「やおい論」における「少年愛」とは、現実社会(リアル)の恋愛市場における「ヒエラルキー」を──コンプレックスを──反映/回帰していると言えないだろうか。

己を補完してくれるものの探求という(プラトン『饗宴』の)アリストファネスの神話は、悲劇的で魅惑的なイメージを織り上げています。この神話は、生命体が愛において求めているのは、他者である、性的半身であると述べています。愛の神秘のこの神話的表現に代えて、精神分析体験は、性的補完物の探求とは違う主体による探求を置きます。それは、自分から永久に失われてしまった部分の探求です。



ジャック・ラカン精神分析の四基礎概念』(岩波書店

やおい論」は、あくまでも後付けの──象徴界における──説明である。「欲望の弁証法」に則った<解釈>である。では、「やおい<そのもの>」はどうなのか。それは「欲動」なのではないか、純粋な。<正常性>を主張/獲得する<必然>すらないような。

精神分析では、「欲望」と「欲動」は区別される。ジジェクの明快な区別を参照しよう。

欲動とはまさに、欲望の弁証法に取り込まれない、弁証法化に抵抗する要求にほかならない。要求はほとんどつねに弁証法的媒体を含んでいる。われわれは何かを要求する。だが、われわれがこの要求を通じて真に目指しているものは別の何かであり、時にはその要求そのものの否定であることすらある。何かを要求するたびに、かならず一つの疑問が生じる。「私はこれを要求する。だが、それによって本当は何を求めているのか」。反対に、欲動はある特定の要求に固執する。弁証法的策略には絶対に引っ掛からない「機械的」なしつこさなのである。私は何かを要求する、そして最後までそれに固執する、というわけである。



スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』

レイプされて主体化、「メタ・やおい」=「やおい論」は存在しない

眼差しは見られるのです。

(中略)

欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。



ジャック・ラカン精神分析の四基礎概念』(岩波書店

ラカンによれば、対象を見ている眼は主体の側にあるが、視線は対象の側にある。私が対象を見るとき、かならず対象はすでに私を見つめている。その点に立つと私には対象が見えないような、ある点から。



スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』では、「レズビアンの経験」が「レズビアン<ではない>」ジュリア・クリステヴァによって、勝手に──矮小化して、「異常」なものとして──「構築」され、それがクリステヴァの勝手な理論に組み込まれていることへの異議申し立て(クレイム)がなされている。

この「異議申し立て」は、高城響の「やおい論」でも<問題化>されなければならない。高城は、「やおい」の<正常性>を、「やおい」における「肛門性交」への「こだわり」から導いている。なぜならば、「やおい」の作者や読者は、「挿入される体」を持った女性であり、

彼女たちにとってセックスは、必ずペニスの挿入をともなうのだ。それもまた、彼女たちがおそろしく「正常」な女性であるという証明ではないだろうか。



高城響 『「やおい」にむらがる少女たち』

しかも、その際、高城は、同性愛者の間では肛門性交は一般的ではないと<断定>した上で、ゲイ男性のアナル・セックスを苦痛であり不潔であり病気の心配のあるものとしている──アブジェクト(おぞましきもの)のアブジェクション(棄却)を、まるで「自分の経験」のように語っている。

高城は、一貫して「同性愛そのもの」を「異常なもの」として構築し、「やおい」をそれとは違う「正常なものとして」定義する──同性愛と違うことを強調し、違うことから「正常性」を「還元」する。

だったら、なぜ、「同性愛関係」(を扱った<もの/対象>)を「やおい」と呼ぶのだろう。

ここに<矛盾>が生じるのは明白だろう。それは「同性愛関係<ではない>」もの、つまり「異性愛関係」を扱った同人誌など「ノーマル(正常)」と呼ばれる<もの/対象>の存在である。

やおい」は正常なものである=異性愛関係を扱ったものである。

にもかかわらず、もう一つ、「正常なもの」=「ノーマル」と呼ばれる異性愛関係を扱った<対象>が存在する。この「正常」VS「正常」は、いったいどうやったら調整されるのだろうか。どちらが、本当の「異性愛関係」=「正常」なのか。

ポルノグラフィでは、この視線と眼との二律背反が失われる。なぜか。それはポルノグラフィが本質的に倒錯的だからである。ポルノグラフィの倒錯的な性質は、それが「汚らわしい細部をすべて徹底的に見せる」という明白な事実のなかにあるのではない。ポルノグラフィの倒錯性は、厳密に形式的に捉えなければならない。ポルノグラフィにおいては、観客は最初から倒錯的な立場に立たされる。視線は、見られている対象の側に注がれるのではなく、われわれ観客自身に注がれる。



スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』

簡単な思いつきからは、「やおい」を「メタ・異性愛」と定義することで、<調整>することが可能かもしれない。

しかし、それならば、「やおい」という「セクシュアル・ファンタジー」=「ポルノ」において表出される<欲望>の数々は、異性愛の<症例>として登録されるべきものである。

精神分析フェミニズムとの相容れない差異、すなわちレイプ(あるいはそれを支えるマゾキスト的ファンタジー)をめぐる窮極の問題点へと私たちを導くもの、それがこうしたファンタジーに配備された地位に他ならない。標準的フェミニストにとって、レイプが少なくとも外部から圧し付けられた暴力であるということは、ア・プリオリな格率である──たとえ女性がレイプされるといったファンタジーを持ったとしても、それはただ女性が男性の態度を内部化しているという惨めな事実を証しているにすぎない、と。



スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社

しかし、言うまでもなく、「やおい」においては、あくまでも「レイプされているのは」男性である。「レイプしている」のも男性である。そしてアブジェクトとしてのアナル・セックスを行っているのも男性同士である。つまりそれは「同性愛関係」としてしか「見えない」──同性愛関係として<表象/代理>されている、すなわち異性愛の態度が<外部化>されている。

ここに、レイプという、もう一つの──異性愛者の──「アブジェクト」(おぞましきもの)が、同性愛者に「擦り付けられる」。これこそ<検閲>なのではないか。「異性愛の観客」はレイプを異性愛関係から「アブジェクション」(棄却)する、あるいは「検閲」する。

また、セジウィックの「ホモソーシャルな欲望」を拡大・応用して「ヘテロソーシャルな欲望」の投射を考えてみたい。自分たちの、すなわち異性愛の「禁じられた欲望」を同性愛者という「否定的なカテゴリー」に押し付け、自分たちは「正常」であることをパラノイア的に強調しているのではないか、と。

それ(レイプ)を、めいいっぱい、「ハッピーエンド」として、<享楽>するために。

女性がレイプされるあるいは少なくとも惨い扱いを受けるといったファンタジーを持つと言った途端、次のような叫びを聞くことになるだろう──すなわち、それはユダヤ人が収容所のガス室に送られるというファンタジーをもつ、というに等しい! こうしたパースペクティヴから言えば、引き裂かれたヒステリックな状態(性的に虐待され利用されることに文句を言いながらも、他方で同時にそれを欲望し、自分を誘惑するよう男の気をそそるといった分裂)は副次的である。だが、フロイトにとってそれは、第一義的であり、主体性を構成する機制である。したがって、フロイトの見解にあってレイプにまつわる問題は、たんにレイプが非常に野蛮な外的暴力の事例であることだけを意味してはいなかった。フロイトにとってレイプは、犠牲者自身において否認されている何ものかに関係しているからこそ、トラウマに充ちた大きな衝撃なのである。フロイトは「もし〔主体が〕そのファンタジーにおいてもっとも強烈に恋い願っていることが現実においても与えられれば、主体は、それにもかかわらず、そこから逃げ去るだろう」と書いたが、そのとき彼にとっての問題は、それが検閲を理由として起きるという単純な理由からではなく、むしろ私たちのファンタジーの核心には私たちにとって耐えがたい何ものかが潜んでいるという理由に関わっているのである。



スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』


盗まれたウルトラ・アイは必ずモロボシ・ダンに届く、大文字の<他者>の語らいとしての「やおい論」

しかし、人は象徴界の段階に丸ごと移行するわけではなく、想像的関係をひきずりつつ生きていくのである。それ故、主体は他者たちの声を聞きたいばかりに、自分の姿を映し出してくれると思われる他者を見つけては、その中に自分をあずけるといったことを繰り返す。

パラノイアが生ずるのはこの構造の中である。自己の姿を想像関係にある他者にあずけてしまった主体は、愛と憎しみが支配する関係に囚われていく。自分の姿をまるごと映し出していると感じられるような相手にたいしては愛を感じ、一方、自分が相手に取り込まれてしまったと思えば、自分の存在を取り戻すべく、主体は憎しみという心的エネルギーを持ってその事態に立ち向かう。



下河辺美智子『バタフライナイフは他者の語らいを希求する ラカンのL図をめぐって』(現代思想1998-10 青土社

ウルトラセブン全49話中3回、モロボシ・ダンは、ウルトラ・アイを盗まれる(『湖のひみつ』『マックス号応答せよ』『盗まれたウルトラ・アイ』)。

しかも3回とも、「地球人男性としての<仮の>姿」を取るダン隊員は、やはり「地球人女性としての<仮の>姿をした」宇宙人に、ウルトラ・アイを盗まれる。

これは偶然だろうか?

誰でも想像がつくようなカンタンな<分析>を「あえて」するならば、ウルトラ・アイは「ファルス」である。「仮の<女>」は「仮の<男>」を「去勢」する──これによって、モロボシ・ダン=<仮の男>はセブン化=巨大化を阻まれる。<仮の女>はファルスを持つ──このことにより<それ>は地球を思い通りに攻撃する邪悪な<享楽>に、真に、目覚める。

そこには、「邪魔する者」=ウルトラセブン=「父の名/否」は、存在しない。

この<分析>において特筆すべきなのは、「ファルス」はもともと「地球人男性形体生物」の持ち物であること。一方、「ファルス」を欲望し、それを──誘惑して──盗もうとするのが「地球人女性形体生物」であること。そして「ファルス」を<所有>している<もの>が、その時点においては、有利・優勢であること。しかし最後には<男>は「ファルス」を奪還し、<ファルスを盗んだ女>は死に至る。勝利は<男>のものだ。

もともと「宇宙人」には、「地球人的観点」からみた<性別/性差>はないはずだ(それとは異なるはずだ)。にもかかわらず、宇宙人の「投影による自己同一化」が、地球人の男か女によって、運命は予定調和的に決定される。

ま、冗談はともかくとして。しかし古い子供用のTV番組には抜きがたく象徴界イデオロギーヘテロセクシズム、反フェミニズム)に則っているのがわかる──それが、一種の<教育>なのかもしれない……

……と「書くこと自体」が、すでにして「使い古された」常套だ。時代遅れのカビ臭い議論でしかない。今どきそんな「家父長的抑圧<みたいなもの>」を暴いたところで、何の意味もない。

しかし、もともと「意味のない<もの/対象>」から、わざわざ「意味を探る/意味づけをする/意味を当てはめる」という「意味のない<行為>」。それが「やおい、を語る」という行為──すなわち「やおい論」だ。

ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。



スラヴォイ・ジジェク

スラヴォイ・ジジェクとの対話」(浅田彰『「歴史の終わり」を越えて』より、中公文庫)

やおい論」の特徴は、何より、まず、「なぜ男性同性愛なのか?」という<問い>を立てることにある。そしてこれこそ、差別の第一歩である。そのことが抑圧的なのである。男性向け同人誌や「非やおい=ノーマル」(異性愛もの)は、「なぜ異性愛なのか?」と<問われる>ことは、まず、ない。問われるとしたら、「なぜ二次元なのか」ぐらいなものだ──何が、「やおい」と「それ以外のもの」を峻別しているのか、もし峻別しなかったら、そもそも「やおい論」は存在しないのではないか。

(だいたい、「非やおい」を平然と「ノーマル」と呼んでいる神経がわからない。このネガティヴ性はメタ・ヘテロセクシズム、メタ・ホモフォビアと言ぶべきなのだろうか。あからさまな差別形態<ではない>だけに、それだけ根深く「いっそう危険なもの」だ)

「なぜ同性愛か」と<問うこと>。ここに、すでに・つねに、「同性愛」を「異常視」する<差別的な視点>が現前している。異性愛/同性愛という、非対称的な、階層的な、二項対立的な「カテゴリー」が、つねに・すでに構築されている──まさに、<そこ>において構築されるのかもしれない。

ゆえに、「やおい論」は必然的に差別性を帯びる。「やおい論」において差別が<産出>されると言ってもよい。これは「原理的」にそうなのである。「やおい論」は、「正常な異性愛者」が、なぜ「異常な、禁断の、同性愛<なるもの>」に惹かれるのか、という<その一点>を<説明>することにある。

やおいは「男と男の愛」であるという、その「異常性」の一点にだけ依って立っている。



高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

むろん「答え」は決まっている、決まりきっている。

やおい論」こそ、同性愛差別の、行為遂行(パフォーマティヴ)なのである。

クリステヴァはもっぱら、父の法の禁止的側面だけに自分の議論を限定してしまったために、父の法がいかに自然な欲動という形態で、ある種の欲望を産出しているかを説明できなかった。彼女が表現しようとした女の身体は、女の身体によって空洞化されるはずの法によって生産される構築物なのである。だが、父の法についてのクリステヴァの見解を批判したからといって、文化や《象徴界》は女の身体の否定に基盤をおくという、彼女の一般論を無効にするものではない。だがわたしがここで指摘したいのは、意味作用が女の原理の否定や抑圧に基づくものだという主張はすべて、女であることが、それを抑圧する文化の規範の本当の外部かどうか検討すべきだということである。



ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社

「同性愛関係を問題にする<やおい論>」の存在は、したがって、「同性愛差別」の存在とリンクしている──共犯的に、存在論的に。

メタ言語はない」のは、語る主体がすでに語られているからである。つまり、主体は自分の言っていることの効果を制御することができない。彼はつねに「言おうと思った」こと以上のことを言う。実際に言ったことのほうが意図した意味よりも多いために、抑圧された意味が言葉の中に入り込む。言葉の中で、「抑圧されたものが回帰する」のである。「抑圧されたものの回帰」としての症候とは、こうした言い間違いに他ならない。言い間違いによって「手紙は宛先に届く」、すなわち大文字の<他者>が主体に、主体自身のメッセージを正しい形で返す。



スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房