HODGE'S PARROT

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言語、権力、置換戦略



異性愛的な枠組みのなかで異性愛構造が反復されることは、いわゆる起源(オリジナル)と考えられている異性愛が、じつはまったく社会の構築物であることを、はっきりと浮き彫りにするものである。だからゲイとストレートの関係は、コピーとオリジナルの関係ではなく、コピーとコピーの関係なのである


ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社

問題は、以下の記事の「語られかた」だ。

”同性愛男性の脳、フェロモン反応は女性に近いと報告書” [CNN]

ワシントン──性フェロモンに対する同性愛男性の脳の反応は、異性愛男性の脳よりも、むしろ異性愛女性の脳の反応パターンに近いと、スウェーデンのカロリンスカ大学病院の研究チームが9日、米科学アカデミー紀要(電子版)に発表した。

このタイトルからしてそうだ。同性愛男性の脳異性愛女性に近い、ということは、異性愛女性の脳同性愛男性に近いということに他ならない。
それなのに、なぜ、タイトルが、
異性愛女性の脳、フェロモン反応は同性愛男性に近いと報告者”
にならないのだろう。
もちろん、これは、異性愛男性と同性愛男性という「二項」を両極において、それならば異性愛女性は、どっちだ! ということを示しているにすぎない。
だから、

同性愛男性の脳の反応は、異性愛男性の脳よりも、むしろ異性愛女性の脳の反応パターンに近い

は、

異性愛女性の脳の反応は、異性愛男性の脳よりも、むしろ同性愛男性の脳の反応パターンに近い

と置換できるのと同様に、

異性愛男性の脳の反応は、同性愛男性の脳の反応パターンとも、異性愛女性の脳の反応パターンとも異なる

と書くこともできる。
しかし、この記事を読む限り、異性愛男性と異性愛女性の「両極」がまず前提にあり─それが<自然化>されて、実体としてあり──そこに同性愛男性が<代補>として、ある。そういう「配置図」になっている。

むしろ権力は、ジェンダーについての思考の枠組みとなっている男女の二元論を産出するべく、機能しているように思えた。わたしが疑問に思ったのは、どんな権力の配置が、主体や《他者》や「男」・「女」の二元的な関係や、これらの関係の内的安定さを構築しているのかということだった。


ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』

だいたい、なぜ、「異性愛/同性愛」という<言葉>が、単なる「男性/女性」という<言葉>の前についているのか。異性愛で「ある」女性が、「その異性」で「ある」男性に反応を示すのは、明白すぎるほど明白だ。そして異性愛で「ある」男性が、「その異性」で「ある」女性に反応を示すのは、当然すぎるほど当然だ。
同様に、同性愛で「ある」男性が、「その同性」で「ある」男性に反応を示すのも、自然すぎるほど自然だ。
いわば、トートロジー。それなのに、なぜ、すでに・つねに「存在」している「同性愛/異性愛」を、まるで、いま・ここで「認識」したような「語られかた」がなされるのか?

次。

研究チームは、同性愛男性の視床下部がANDに対して反応していることから、同性愛の傾向と、視床下部の神経系が、大きく関係している可能性がある、と話している。

なぜ、「同性愛の傾向」を調べる必要──「問題化」する必要──があるのか。なぜ、「異性愛の傾向」は<調査・研究の対象>にならないのか。異性愛男性が「なぜ、女性の尿などに含まれる女性ホルモン様物質(EST)」に「反応するという事態」ということこそ、不思議で興味深い問題なのではないのか。

それなのに、なぜ、「同性愛の傾向」だけが、<調査・研究の対象>になるのか。
むしろ、こういった異性愛と同性愛の「非対称性」、こういった「政治的に中立でありえない調査・研究が行われ、<わざわざ公表される>こと」こそが、<調査・研究の対象>になるべきなのではないか。こういったことにこそ、社会学は目を向けるべきなのではないか。

それと疑問に思うのだが、この調査・研究には、なぜ、女性同性愛者(レズビアン)の報告がないのか。しかし容易にその答えは見出せるのではないか。それはつまり、もともと「結果ありき」の研究だからだ。同性愛男性と異性愛女性の脳の反応パターンは「近いにちがいない」……と「想定」して、その通りの「結果」になった。だから発表したのではないか。
しかし、同性愛女性と異性愛男性の「親近性」は、「想定通り」の「結果」ではなかった。想定していたのは、同性愛女性は、異性愛男性に近い、というものだったのではないか……しかし、「結果」は報告するに足るものではなかったのではないか。


だいたい、この記事・研究の<目的/陰謀>は、「同性愛男性≠異性愛女性」という「一括りの」ジェンダー=セックスと「異性愛男性」というジェンダー=セックスを「対峙」されることによって、「異性愛のマトリクス」を、「構築/捏造」させることにあるのではないだろうか。

強制的で自然化された異性愛制度は、男という項を女という項から差異化し、かつ、その差異化が異性愛の欲望の実践をとおして達成されるような二元的なジェンダーを必要とし、またそのようなものとしてジェンダーを規定していく。二元体の枠組みのなかで二つの対立的な契機を差異化する行為は、結局、各項を強化し、各項のセックスとジェンダーの欲望のあいだの内的一貫性を生み出すのである。


ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』