HODGE'S PARROT

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罪なき血



font-da さんの 「ポルノグラフィとイデオロギー - キリンが逆立ちしたピアス」を読んだ。僕が普段から考え、悩まされてきた問題についての示唆がそこにあるように思い、少し整理しておきたくなった。それは、言うまでもなく、同性愛表現が描かれてありながら、そこに同時に、同性愛嫌悪表現が/も描かれている「やおい」についてである。


まず確認しておきたい。

  • 異性愛)男性向けポルノにおいて「男性が女性をレイプする」

この場合、レイプが<悪>であるならば、「異性愛/関係」を「穢している」主体は、いったい何者なのか。

  • 異性愛)女性向け「やおい」において「男性が男性をレイプする」

この場合、同様に、「同性愛/関係」(男性同性愛)を「貶めている」主体は、いったい何者なのか。

しかしながら、この例は、同列に扱えないだろう。なぜならば、「異性愛」「異性関係」を「貶める」ことはいったいどのようにして可能なのか──表象の暴力は、異性愛と同性愛といった権力関係の中に必ず横たわっているはずだ。



この問題と関連して、僕は以前、次のエントリーを書いたことがある。


そしてこれを書いたときも漠然と感じていたのだが、最近とくに思うことがある。それは一部の「やおい論」において、その中に、ときおり、「歴史修正主義」的な言説と似通ったものが見られることだ。それが非常に気になる。「女のためのホモエロティシズム云々」と謳いながら、男性同士の物語=「やおい」ばかりに拘泥する批評も、その「ヘテロセクシズム」がかなりウザイのだが、それとは別の次元である。それは……
……「性的搾取」の主体ではありえない──国家や軍は主体的に行動しなかった/できなかった……そして「性暴力」を告発する人々の「地位」を攻撃し、相対化し、「どっちもどっち」という印象を与える……。


このような言説に注意を向けることは必要であろう。