『言葉と傷』という題名の論集に寄稿した法学者や活動家たちは、憎悪発話の規制に理論的根拠を与えようとして、「発話」の法的範囲を拡大したり、複雑化する傾向がある。これが可能になるのは、発言を思想の「表現」であり、かつ「ふるまい」の形態であるとみなすことによってである。個々の人種差別的な発話は、それが向けられる人々に人種的劣性を宣告すると同時に、その発言をとおして、その人種を従属的立場におく効果を生みだす。
マツダ(=マリ・マツダ)らによれば、発言が憲法修正第一条の「保護」を受けているかぎり、その発言は国家の後ろ盾を得ているとみなされる。彼女の見方では、国家の介入がないということは、国家に裏打ちされていることと同義となる。
ジュディス・バトラー『触発する言葉』(竹村和子訳、岩波書店)p.114-115
Mari Matsuda の『Words that Wound』は翻訳されていない。が、それを批判しているバトラーの著書は日本に紹介されている。批判の俎上に挙げられている形でのマリ・J・マツダの論旨であるが、しかしそこには、無視できない非常に有意義な問題提起がなされているように思える。
マツダは中傷発言を、「単なる言葉」(Only Words)とは看做さない。実際に、現実に、人を傷つける行為遂行だと主張する。
ヘイトスピーチは、傷を──外傷を、裂傷を──与えるもの(Words that Wound)なのである。
たとえばマリ・マツダの公式では、発話は社会の支配関係を単に反映しているだけではなく、発話が支配を演じることによって、社会構造を再就任させる手段ともなっている。この発話内行為のモデルでは、憎悪発話は、その受け手を発言の瞬間に作りだすが、それは中傷を描写しているのでも、また結果として中傷を生産しているわけではなく、その言葉を語っているときに、中傷が社会的従属を意味するような中傷のパフォーマンスになっているのである。
ジュディス・バトラー『触発する言葉』p.29
このマツダの主張は、「やおい」における差別表現、侮蔑表現、暴力表現──端的に言えばレイプ──を「問題化」する有効な「手掛り」を与えてくれるのではないか。
なぜ「やおい」は、他のポルノと同様の措置──すなわちレーティングとゾーニングを免れているのか。「やおい」には、レイプ表現が溢れている。のみならず、同性愛に対する揶揄、侮蔑、そして「蔑称の使用」も溢れている。暴力表現と差別表現が渾然一体になっている。したがってそれは、同性愛を貶める「最高の/最悪のメディア」に他ならない。
さらに深刻な問題がある。それは「やおい、そのもの(内容)」だけではなく、「やおい、について語ること」、つまり「その語られかた」においても、ゲイに対する揶揄、侮蔑、「蔑称の使用」が認められることだ。
したがって「やおい」の「語られかた」すなわち「その発話の効果」も注視するべきである。
事実、id:Maybe-na氏のように、「ゲイに人権がないこと」を利用して「やおい」を書くべきだと「主張」するサイトも存在する。
マツダによれば、嫌がらせや中傷の発話は、ある市民からべつの市民へ、また雇用者や支配人から労働者へ、教師から学生へと向けられる名指しの形態をとる。マツダの見解では、そのような発話の効果は、人を貶め、名誉を傷つけるものである。それは名指しされた人の「腹にこたえる」ものとなり、名指しされた人の職場での能力や、学業や、また憲法で保護されている権利と自由を公的領域で行使する能力を、侵食しうるものである。「犠牲者は国家を持たない人間となる」。
ジュディス・バトラー『触発する言葉』p.118
なぜ、そのような「やおい=ポルノ」に対して、「他のポルノ」と同様の措置が取られないのか。
「やおい」においてなされる、同性愛関係の揶揄・侮蔑、そして「蔑称の使用」は、端的に、同性愛者の「従属化」をもたらしている。
「やおい、を語ること」においてなされる、同性愛関係の揶揄・侮蔑、そして「蔑称の使用」は、端的に、同性愛者の「従属化」をもたらしている。
しかるに、「やおい」において「他のポルノ」と同様の「当局の介入」がされないということは、それはつまり、当局が同性愛者の「従属化」を容認し、それを強化していることを意味する。
マツダの考えに従えば、同性愛者は「国家を持たない人間」なのか。
かくしてその発言は、国家の介入によって妨害されない公的領域で自由にはたらいて、それが表現し助長している従属化をもたらす力をもつことになる。マツダによれば、その結果、国家は市民への中傷を容認することになり「(憎悪発話の)犠牲者は、国家をもたない人間となる」。
ジュディス・バトラー『触発する言葉』p.115
さらに、「やおい」を「擁護する言説」にも問題はないのだろうか。例えば以前書いたように、一部の「やおい論」においては、ありとあらゆる手前勝手な自己中心的な理由を並び立て自己正当化するも、しかし結局、同性愛差別の再演=行為遂行(パフォーマティヴ)でしかない。
だいたい、なぜ、「女性がレイプされるポルノ」と「同性愛関係におけるレイプ」を「擁護する場面」において、「表現の自由」以外の理由を設定する必要があるのか。「同じようにレイプに対して不快感を生じている当事者」が──もし、仮に──存在するのならば、なぜ、「同じような措置」を求めることができないのか(ポルノの是非を問題にしているのではない、肯定するにせよ否定するにせよ、そこに生じる格差、「手続き上の差別」を問題にしているのである)。
ユーゴスラビアの内戦で組織的に行われたといわれるレイプというのはそういった他民族的多言語的家族関係を徹底的に破壊する作業だと思います。兵隊は強姦したくないといっているにもかかわらず、組織的に捕虜になった敵の女性を命令で強姦させ妊娠させている。しかも、臨月に近くなって、堕胎できないようになってから、そのような捕虜を釈放したといわれています。つまりレイプをやってしまうと、それまで当たり前だった混血児が以降全部スティグマが付いてしまうでしょう。混血児の存在がレイプのトラウマに結びつけられるから純粋系への欲望ができてくるんです。
これは純粋な民族語や民族の血統への欲望が作り出される過程を見事に示しています。ですからレイプは国民ができあがる建国の過程を象徴的かつ集約的に表しています。言語と血の分割ですね。
レイプは、「ある種のスティグマ」を創出する可能性がある。「ある種のスティグマ」を思い出させる──再演する──可能性がある。だからこそ、レイプという「性的ファンタジー」を楽しむのならば(そのことを僕は否定しているのではない、このことは強調しておく)、レーティングとゾーニングが必要なのだ。
問題なのは、「良いレイプ(公認されたレイプ)」と「悪いレイプ(非公認されたレイプ)」という「区別」である──なぜ「その区別」があるのかを疑うべきである。
そしてある集団の異議申し立てを認め、ある集団の異議申し立てを認めないことである。
「あるポルノ」に関しては、それを「享受する主体」を問題にし、「その内容、そこにおいて<搾取>されている客体、そこにおいてなされる差別形態」への異議申し立てを無視すること。
「別のポルノ」に関しては、それを「享受する主体」は問題化されず、「その内容、そこにおいて<搾取>されている──とされる──客体、そこにおいてなされる差別形態」が問題化される。
なぜ、そのような「分割」がなされるのか。
マツダが推定していることは、誰かのあだ名(ネーム)を言うこと、もっと正確に言えば中傷的な名指しをすることは、その人を社会的に従属化することであり、さらには、その特定の場所(教育の現場や職場)や、国の公的領域というさらに一般的な文脈のなかで、共通に認められているはずの権利や自由を行使する能力を、名指しされた人から奪うという効果をもっているということだ。
発話の規制に賛同する議論のなかには、規制がおこなわれる文脈を特定して、ある種の職場や教育環境に限定しようというものもあるが、マツダは、国の公的領域全体を、憎悪発話に対する規制の適切な参照枠だと主張するつもりのようだ。ある集団が「歴史的に従属化されて」いればいるほど、その集団に向けられる憎悪発話は、「構造的な従属化」の追認と拡張になる。マツダにとって、従属化の歴史的形態は「構造的」地位をもっており、したがって一般化された歴史や構造が、憎悪発話を効力あるものにする「文脈」を構成しているということのようだ。
ジュディス・バトラー『触発する言葉』p.118-119
「愛ゆえのレイプ」なんて存在しない。そんな「やおい」を「擁護する言説=レトリック」は、「別のレイプ」例えば「愛国心ゆえのレイプ」をも相対化するだけだ。
その欺瞞的なレトリックは、「やおい」独特のものなのか。
その欺瞞的なレトリックこそ、日本における「陰湿な差別形態=やおい」を野放しにしているのではないか。
この(加藤典洋の)『敗戦後論』の論理は、ただちに批判された。その最も鋭利な批判者である高橋哲哉は、その論理の自己中心性、自己のアイデンティティの「回復」を「先に置く」方法の欺瞞性を指摘した。高橋は言う──「加害責任を問う瀕死の<他者>を眼前にしながら、その<他者>との関係に先立って、その<他者>との関係ぬきに、自己が確保できるかのようにいう」加藤の議論は、「他者」の「顔」との対面が開示する「根源的社会性」(エマニュエル・レヴィナス)を抹消したうえにのみ成立する「外部なき<同胞意識>の仮構」にすぎず、そのような結局「内向き」の姿勢は責任主体の構築からまったく遠い、と(「《哀悼》をめぐる会話」)。
「やおい、の問題」=「日本独特の差別形態」を語るときに、不可欠の想像力を喚起してくれる要素は「レイプ」である。
なぜ当局/権力は、「やおい」における「レイプ表現」を見逃しているのか──そこに何かしらの意図はないのだろうか。フェミニストや社会学者は、「やおい」にみられる「日本独特の差別形態」及び「それを容認・公認している権力の姿勢」を「問題化」するべきである。
言説が引き起こす混乱は、その混乱を生み出している正体を明らかにすることなくして「戦争責任」は語りえないことを示唆している。
大越愛子は、早い時期から「慰安婦」問題の「根源的問題」を議論することが必要であるとし、「このような世界に類のない制度を生み出した日本とは、一体何なのか? このような深刻な問題を放置したまま、すまして繁栄を謳歌し、極楽とんぼに日本賛美を続ける日本人とは、一体何なのか?」と、日本的性風土を問うてきた。
西野瑠美子「戦争責任」(現代思想vol.29-15)
日本の特殊主義と、現代日本の文化本質主義を批判するために、彼(=デイヴィッド・ポロック)は、他者をけっして受け入れようとしない日本の像をつくり出さなければならなかった。つまり、あとで非難するための対象を彼はまずつくり出さなければならなかったのである。しかし、この過程で彼は誤ってこの奇妙な対象を彼自身の文化本質主義によって規定することになったのである。その結果、文化本質主義は、研究対象の属性ではなく研究主体の基本語彙として受け容れられてしまうことになった。
- 作者: Mari J Matsuda
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マリ・マツダに関するサイト
- Mari Matsuda Background Information [Asian Pacific Islander Caucus]
- Information on Mari Matsuda[Rutgers University]
- First Couple of Affirmative Action [AsianWeek]
マリ・マツダに関しては、田崎英明の『ジェンダー/セクシュアリティ』で、簡単に紹介されている。
マツダは、キャサリン・マッキノンのフェミニズム理論を「人種」に接続、「批判的人種理論(Critical Race Theory)」を提唱しているという(その名前から推察されるように、彼女は日系アメリカ人である)。
彼女はヘイト・スピーチ(差別的言説による人権侵害)を言語行為論を通じて理論化している。そうすることによって、エスニック・マイノリティや性的マイノリティに対する差別の問題とマッキノンたちのポルノグラフィ批判を繋いでいく。