HODGE'S PARROT

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娘の誘惑と究極のホモソーシャル

ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』(岩波書店)には、こんな一節がある。

フロイトはリビドーを一次過程の本質的要素として主張しています。それはつまり、彼が理論を説明する際のテクストの見かけとはまったく違って、もっとも単純な幻覚においてさえも、つまり欲求の中でももっとも単純な口唇的欲求に関わる幻覚においてさえも、たんなる欲求の対象がそこに出てくるわけではない、ということです。そのことはたとえば、幼いアンナがたしか「タルト」や「苺」や「卵」やその他のご馳走の名前を寝言に言いながら夢を見ていたときに、アンナの夢に生じていた幻覚を考えてみれば解ります。夢という幻覚が可能になるのは、これらの対象の性愛化がなされていればこそです。実際、気づかれた方もいらっしゃると思いますが、アンナは禁じられた対象だけしか幻覚していないのです。

ジュディス・バトラーは、ラカンが代名詞の位置を彼独特に自在に動かすために──浮遊させる──ために「曖昧」なところがあり、そのことによって「何となくわかったような感じ」にさせる、と書いているが、この「幼いアンナ」は精神分析の父ジグムント・フロイトの娘アンナ・フロイトのことだよね? 患者アンナ・Oではないよね、後半の文章でラカンは「O嬢」と書いてあるし。

とすると、この「禁じられた対象」ってのは、フロイトの娘がレズビアンであった、もしくはレズビアン疑惑が浮上していたことを「仄めかして」いるのではないか。たしかに「苺」や「卵」は──馬鹿馬鹿しいまでに、つまり精神分析的に──女性を象徴してるよな……言うまでもなく、誰でも、もちろん「分析家」でなくても「分かる」くらいに。

アンナ・フロイトに関しては、本人は認めなかったようだが、同性愛傾向があったことは周知のようだ。

http://www.glbtq.com/social-sciences/freud_a.html

Anna Freud neither conformed to conventional heterosexual expectations nor identified herself explicitly as a lesbian. Even though it is impossible to know whether Freud was homosexual, it is relatively easy to conclude that she was decidedly not heterosexual in any typical sense.

アンナ・フロイトと言えば、メラニー・クラインとの論争、というか「権力闘争」が有名だが、アーネスト・ジョーンズやクライン派が同性愛差別的な傾向があるのは、もしかしてアンナへの「嫌がらせ」だろうか……なんて穿った見方をしてしまう。
そしてドゥルーズガタリがクラインを批判し、ジュリア・クリステヴァがクラインを支持しているのも、問題は「同性愛」への態度の相違なのでは……なーんて、また穿った見方をしてしまうが。


一方、父親のジグムント・フロイトにも「同性愛傾向」云々が言われる。ブロイアーやフリースらといった弟子との間に。しかし、これは、まったく同性愛(ホモセクシュアル)とは違うだろう。
アンナ・フロイトホモセクシュアルであったかもしれないが、ジグムント・フロイトはそうではない。フロイト近辺が、男同士の絆──つまり、「ホモ・ソーシャル」を形成していただけだ。イヴ・コゾフスキー・セジウックが分析したように、同性愛的要素を十分満たしながら、その実、「本当の同性愛者を嫌悪し排除するシステム」、それがホモソーシャリティだ。

フロイト精神分析)の同性愛解釈は許しがたい、それは端的に「差別」である。それは明らかに「同性愛嫌悪」に則っている。
しかし、「精神分析特有のホモソーシャル環境」と「実際のホモセクシュアル」を<混同>させ、それをさらに「フェミニズム的な高み」から断罪するジェーン・ギャロップは、さらに許しがたい。「肛門ファシズム」っていったい何だ?
差別主義者ジェーン・ギャロップは、ホモソーシャルホモセクシュアルの区別がついていない。

スラヴォイ・ジジェクは、さすがにそういったところは自覚的であり、だからこそ僕は彼の著書はとりあえず読める。クリントン大統領の「Don't Ask Don't Tell」ポリシーに対してもセジウック的な考えを明快に述べている。

ここで素朴ではあるがそれでも重大な問いを発すべきだろう。軍隊社会が、これほど公然とその兵卒の中にゲイを受け入れることを拒否する理由は何かということである。考えられる整合的な答えは一つだけ、つまり同性愛が、軍隊社会のいわゆる「男根的で父権的」リビドーの経済に対する脅威となっているからではなく、逆に、軍隊社会のリビドーの経済そのものが、兵士の男の絆を左右する成分として同性愛を妨害し否定するということに依存しているからなのだ。


スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔訳、青土社

精神分析家には、しかし、ジェーン・ギャロップ的な「勝手な一方的な解釈/思い込み」を取る卑劣な差別主義者が、ときどき見受けられる。ファシズムと同性愛を、短絡的に、絡める都合の良い「解釈」を取ることによって。
なるほど、たしかにスーザン・ソンタグも指摘したように、ナチズムにはキッチュで一部のゲイが好むファンタジーに近しいと「思われる」肉体至上主義的なところがある。

しかし、なぜ、ナチスが同性愛者を強制収容所に送り虐殺をしたことを、都合よく「失念」しているんだ? ナチスこそが「究極のホモソーシャリティ」を形成しており、そのため、「究極の手段」=「虐殺」によって、「同性愛嫌悪」を<貫徹>させたのではないのか
それなのに、同性愛者に「死のイメージ」を平然と擦り付け、そこに「ファシズムのイメージ」を擬える精神分析家こそ、究極の差別主義者だ。それこそ、ナチスのやり方をマネた究極のファシストだ。それこそ、「被害者」を攻撃する悪辣な「セカンド・レイプ」先導者だ。自分たちの「罪」を他者に擦り付ける、究極の「歴史修正主義者」だ。

何より、ある集団に「死のイメージ」を擦り付けることは、究極の人権侵害ではないのか? 象徴的どころか、それこそ、同性愛者の社会的なそして物理的な「抹殺」を「望んでいる」のではないのか? 精神分析という「学/知」を使って「究極のホモフォビア」を巧妙に喧伝しているのではないのか? それがお前らの言う「喪の作業」なのか?
精神分析こそシンボリックなホロコーストではないのか?
樫村晴香やそのテクストを載せている保坂和志は自分たちのやってることの「意味」を理解できないのか? 自分たちの行為を何とも思わないのか?

一個人、三島由紀夫の「退屈な兵隊ごっこ」(by 浅田彰)がそんなに「強烈かつ重要な症例」なのか?

レズビアンを文化の《他者》とみなし、レズビアンの発話の特徴を精神病患者の「言葉の渦巻き」とするクリステヴァは、レズビアンセクシュアリティを、本来的に理解不能なものとして構築する。クリステヴァは法の名のもとで、レズビアンの経験を放逐し矮小化するが、その戦術によって彼女は自分自身を、父系列=異性愛主義の特権に枠内にとどめている。
(中略)
クリステヴァは、それを失うことを自分が恐れているとは決して認めない許可された異性愛の立場から、母の身体とレズビアンの経験の両方を記述する。


ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社

精神分析家は、ファシズム戦争犯罪を「狂気(症例)」にして、それを「誰か=他者」に擦り付ければ、「多くの善良な<異性愛者>」を「罪の意識」から<救える>と思っているのだろうか。精神分析においては、同性愛者は、いつだって都合の良い「スケープゴート」にされる(そしてこの「同性愛者を都合良くスケープゴートにすること」は舞城王太郎もやっている。このことは絶対に看過できない)。
むしろ、スケープゴートにするために、精神分析は同性愛に「関心を抱いている」のではないだろうか。簡単で単純な「答え」をマジョリティに<提供>するために、後々の「担保」として。