HODGE'S PARROT

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浮遊しないオムレツ

ははーん。いまさらであるが、「やおい」と精神分析の間に<親和性>があり、そして両者がともにヘテロセクシズムと<共犯関係>にあるのは、ここか。

ラカンの『精神分析の四基本概念』(岩波書店)にはこう書いてある。

このようにフロイトは愛の基礎を捉えようとしたのです。性的関係に固有なものが作用しはじめるのは、ただ能動性─受動性ということによってだけです。
ところで、能動性─受動性の関係は性的関係と重なるものでしょうか。たとえば『狼男』のある一節や、あるいは『五大症例』のあちこちに見られる別のいくつかの箇所を見ていただきたいと思います。そこでフロイトは、結局、能動性─受動性という双極的参照項を持ち出したのは性的差異において探索できないままに残っているものを名づけ、含み込み、比喩的に言い表すためであると説明しています。フロイトは、男性─女性関係は心理学的には能動性─受動性という対立で代理する以外にはない、と言っているのです。男性─女性の対置そのものは到達不能なのです。

つまり、「やおい」が<倒錯>ではないと、精神分析屋にお墨付きをもらえるのは、男性同士の同性愛関係を扱っていても、結局、能動性─受動性が、男性─女性に対応している「構造」になっているからだ。男女の対置は「喪失」しても、キャラクターの「レベル」で、能動性─受動性(すなわち男性─女性と同等である<異性愛>の「構造」)で「代理」されていれば、よい。性的役割(能動─受動)が「固定」されていれば、なおよい。ということか。
……って、いまさらであるが、「理論」の出所をメモしておきたく。