HODGE'S PARROT

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子宮《至急》から男根《弾痕》へ、そしてアンチ《安置》・オイディプスへ

MS-IMEが面白い<(誤)変換>をしてくれたので、それも書いておく
(いや、ぜひ書いておきたい、それこそが書きたいのだ、MS-IMEこそ「僕の無意識」を言語化してくれる最高の<分析家>だ。以下<誤変換>は二重カッコ《》で記す)

……それはさておき。新宮一成の『ラカン精神分析』では、執拗に、<必然性>が強調される。フロイトが「口蓋《公害》にできた癌」で死んだことや、ラカンが大腸癌で死んだことにも、何かしら「必然性/理由」があるかのように(なぜならば、フロイトは口唇愛性格であり、ラカンが肛門愛性格であるから)。

一方、鈴木晶は『フロイト以後』(講談社現代新書)で、フロイトが「ウナギの生殖腺の研究に携わったこと」や「ギムナジウムの卒業試験でソフォクレスの『オイディプス王』の翻訳をしたこと」などについて、そのことを後の思想と結びつけることは「穿った見方」「見当違い」だと退けている。

ま、必然性か偶然性かということは、どうでもよい──それは事後的な手続きによる「恣意的なもの」だからだ。それより『フロイト以後』で興味深いのは、「フロイト以前」についても概要が載って《乗って》いることだ。このことは「精神分析の歴史」を知る上で重要だと思う。

精神分析の父」であるフロイトの師匠《支障》は、サンペトリエール病院のシャルコーなる人物である。「サンペトール」は「硝石」を意味し、かつてサンペトリール病院のある地区は「硝石工場」だったようだ……だから? 
そしてこのサンペトリール病院は、病院とは名ばかりで、実際は「監獄」であった。しかも女性専用の。どんな女性が「収容」されていたかというと、貧窮者、放浪者、乞食、老衰者、畸形、癇癪患者、そして狂女《共助》だという──そう、まさにフーコーの『狂気の歴史』そのものだ。

そして問題としたいのは、シャルコーの診察/講義についてだ。『フロイト以後』によると、

彼は何もないテーブルの傍に腰掛けている。すぐに研究対象の患者を連れて来させ、全裸にさせる。

フロイトも参加した)この講義には学生や医師ばかりでなく、作家や好事家や国内外の名士たちが詰めかけた。講義が始まるずっと前から講堂は満員だった。十時になるとシャルコーが厳かに登場する。そして患者が連れてこられる。もちろん女性だ。毎回、若くて美しい患者が選ばれた。彼女たちはシャルコーの催眠術によって、ヒステリー症状を発現させたり消失させたりするのだった。ひと昔前、テレビでよくやっていた催眠術のショーを思わせるが、シャルコーの講義は、あるときはサド・マゾ的、あるときはかなりエロティックだったらしい。刺激をあたえられて、患者がオルガスムスに達するほどの性的興奮を示すこともあったという。

要するに、「患者(女性)」は、<見世物>扱いだった。ヒステリーは「子宮の病」とされていた。そしてフロイトシャルコーの講義に対し、

私の心は劇場で一夜を過ごした後のように満ち足りています。

と感想を述べている。なぜ患者(とされた人)のことを考えないんだ? 「ストリップ(ポルノ)」を見たガキの感想じゃないんだよ。

フロイトも、このシャルコーの<見世物>を引き継いだのだろう。「患者」を「実験動物」にして、面白可笑しく──そして平然と「差別意識」を剥き出しにして──症例《奨励》を「記述《奇術》」している。つまり精神分析は、一種の見世物/劇場/スペクタクルなのだ。女性や同性愛者、そして「精神病と診断された人々」をネタに、「正常だと自認する<男根を持つ観客>」が、それを「見て/読んで」楽しんでいる。


フロイト以後』は、様々な精神分析家の「所業」を紹介しながら、最後はドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』で締めくくる《占め区縷々》。

精神分析というのは無意識の象徴的言語を解読《買い得》するものだ、という考えは、先に挙げたリクールだけでなく、従来の一般的な見解だが、ドゥルーズ=ガタリはそれを真っ向から否定するわけである。精神分析においては──


生産的無意識は、もはや自分を表現することしかできない無意識に──神話や悲劇や夢の中において自分を表現することしかできない無意識に──席をゆずることになる。〔……〕無意識は、それ自身がそれであるところのもの、すなわち工場や工房《興亡》であることをやめて、劇場(つまり、舞台と演出と)になる。