HODGE'S PARROT

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レイプされて主体化、「メタ・やおい」=「やおい論」は存在しない

眼差しは見られるのです。
(中略)
欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。


ジャック・ラカン精神分析の四基礎概念』(岩波書店

ラカンによれば、対象を見ている眼は主体の側にあるが、視線は対象の側にある。私が対象を見るとき、かならず対象はすでに私を見つめている。その点に立つと私には対象が見えないような、ある点から。


スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』では、「レズビアンの経験」が「レズビアン<ではない>」ジュリア・クリステヴァによって、勝手に──矮小化して、「異常」なものとして──「構築」され、それがクリステヴァの勝手な理論に組み込まれていることへの異議申し立て(クレイム)がなされている。

この「異議申し立て」は、高城響の「やおい論」でも<問題化>されなければならない。高城は、「やおい」の<正常性>を、「やおい」における「肛門性交」への「こだわり」から導いている。なぜならば、「やおい」の作者や読者は、「挿入される体」を持った女性であり、

彼女たちにとってセックスは、必ずペニスの挿入をともなうのだ。それもまた、彼女たちがおそろしく「正常」な女性であるという証明ではないだろうか。


高城響 『「やおい」にむらがる少女たち』

しかも、その際、高城は、同性愛者の間では肛門性交は一般的ではないと<断定>した上で、ゲイ男性のアナル・セックスを苦痛であり不潔であり病気の心配のあるものとしている──アブジェクト(おぞましきもの)のアブジェクション(棄却)を、まるで「自分の経験」のように語っている。

高城は、一貫して「同性愛そのもの」を「異常なもの」として構築し、「やおい」をそれとは違う「正常なものとして」定義する──同性愛と違うことを強調し、違うことから「正常性」を「還元」する。

だったら、なぜ、「同性愛関係」(を扱った<もの/対象>)を「やおい」と呼ぶのだろう。
ここに<矛盾>が生じるのは明白だろう。それは「同性愛関係<ではない>」もの、つまり「異性愛関係」を扱った同人誌など「ノーマル(正常)」と呼ばれる<もの/対象>の存在である。

やおい」は正常なものである=異性愛関係を扱ったものである。
にもかかわらず、もう一つ、「正常なもの」=「ノーマル」と呼ばれる異性愛関係を扱った<対象>が存在する。この「正常」VS「正常」は、いったいどうやったら調整されるのだろうか。どちらが、本当の「異性愛関係」=「正常」なのか。

ポルノグラフィでは、この視線と眼との二律背反が失われる。なぜか。それはポルノグラフィが本質的に倒錯的だからである。ポルノグラフィの倒錯的な性質は、それが「汚らわしい細部をすべて徹底的に見せる」という明白な事実のなかにあるのではない。ポルノグラフィの倒錯性は、厳密に形式的に捉えなければならない。ポルノグラフィにおいては、観客は最初から倒錯的な立場に立たされる。視線は、見られている対象の側に注がれるのではなく、われわれ観客自身に注がれる


スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』

簡単な思いつきからは、「やおい」を「メタ・異性愛」と定義することで、<調整>することが可能かもしれない。
しかし、それならば、「やおい」という「セクシュアル・ファンタジー」=「ポルノ」において表出される<欲望>の数々は、異性愛の<症例>として登録されるべきものである。

精神分析フェミニズムとの相容れない差異、すなわちレイプ(あるいはそれを支えるマゾキスト的ファンタジー)をめぐる窮極の問題点へと私たちを導くもの、それがこうしたファンタジーに配備された地位に他ならない。標準的フェミニストにとって、レイプが少なくとも外部から圧し付けられた暴力であるということは、ア・プリオリな格率である──たとえ女性がレイプされるといったファンタジーを持ったとしても、それはただ女性が男性の態度を内部化しているという惨めな事実を証しているにすぎない、と。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社

しかし、言うまでもなく、「やおい」においては、あくまでも「レイプされているのは」男性である。「レイプしている」のも男性である。そしてアブジェクトとしてのアナル・セックスを行っているのも男性同士である。つまりそれは「同性愛関係」としてしか「見えない」──同性愛関係として<表象/代理>されている、すなわち異性愛の態度が<外部化>されている。

ここに、レイプという、もう一つの──異性愛者の──「アブジェクト」(おぞましきもの)が、同性愛者に「擦り付けられる」。これこそ<検閲>なのではないか。「異性愛の観客」はレイプを異性愛関係から「アブジェクション」(棄却)する、あるいは「検閲」する。

また、セジウィックの「ホモソーシャルな欲望」を拡大・応用して「ヘテロソーシャルな欲望」の投射を考えてみたい。自分たちの、すなわち異性愛の「禁じられた欲望」を同性愛者という「否定的なカテゴリー」に押し付け、自分たちは「正常」であることをパラノイア的に強調しているのではないか、と。

それ(レイプ)を、めいいっぱい、「ハッピーエンド」として、<享楽>するために。

女性がレイプされるあるいは少なくとも惨い扱いを受けるといったファンタジーを持つと言った途端、次のような叫びを聞くことになるだろう──すなわち、それはユダヤ人が収容所のガス室に送られるというファンタジーをもつ、というに等しい! こうしたパースペクティヴから言えば、引き裂かれたヒステリックな状態(性的に虐待され利用されることに文句を言いながらも、他方で同時にそれを欲望し、自分を誘惑するよう男の気をそそるといった分裂)は副次的である。だが、フロイトにとってそれは、第一義的であり、主体性を構成する機制である。したがって、フロイトの見解にあってレイプにまつわる問題は、たんにレイプが非常に野蛮な外的暴力の事例であることだけを意味してはいなかった。フロイトにとってレイプは、犠牲者自身において否認されている何ものかに関係しているからこそ、トラウマに充ちた大きな衝撃なのである。フロイトは「もし〔主体が〕そのファンタジーにおいてもっとも強烈に恋い願っていることが現実においても与えられれば、主体は、それにもかかわらず、そこから逃げ去るだろう」と書いたが、そのとき彼にとっての問題は、それが検閲を理由として起きるという単純な理由からではなく、むしろ私たちのファンタジーの核心には私たちにとって耐えがたい何ものかが潜んでいるという理由に関わっているのである。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』