HODGE'S PARROT

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性的指向に言及されないことの幸せ




澁谷知美氏による「性別に言及されないことの幸せ――脱線事故の報道を聞いて思ったこと」

男でよかったね、と思った。
このたびのJR宝塚線脱線事故の運転手である。
過労、過密ダイヤ、スピードの出しすぎ、ATSの故障等々……に原因が求められることはあれど、運転手が男だったから、とは誰も言わない。
もし運転手が女だったら。そりゃあもう「だから女には任せられない」「女は空間把握能力が生まれつき劣っているので運転手として採用すべきでない」と罵倒の嵐でしょう。

この澁谷氏による問題提起は「女」だけに限らない。「同性愛」でも同様である。

何か問題を起こした人物が異性愛者であった場合、「彼/女は異性愛者であった」とは、誰も言わない。しかしもし、彼/女が同性愛者であった場合、どういう「語られかた」が為されるか──それは言うまでもないだろう。

そして確認しておきたいのは、このような差別的な「語られかた」は、その主体の左/右、保守/リベラルのポジションは問わないで行われることだ。むしろ問題なのは、「正義」を主張する「側」が、「同性愛それ自体」を「相手を貶める詐術」に使用する「卑劣な印象操作」だ。

例えば、「暗いニュースリンク」というリベラル系ブログにある「ジェフ・ギャノン事件」。ここでは、ブッシュ共和党政権を批判するために、「問題がある人物」の性的指向が曝露され、当該人物の「性的指向それ自体」がスキャンダルに扱われている──「性的指向それ自体」が<揶揄>されている、そのことが政治的敵対者に対する<攻撃>になっている。

もし、ジェフ・ギャノンが「異性愛者であった」なら、これほどスキャンダラスに扱われただろうか? このような「語られかた」が為されただろうか。このエントリーの「ニュースヴァリュー」は、いったい、何か。そこに潜んでいる「欲望」は、いったい、何か。

ファンタジーという概念が存在論的に曝露するスキャンダルは、それが「主観的」と「客観的」といった月並みな対項を顛覆してしまうという事実に潜んでいる。もちろんファンタジーは、その定義から言っても、(「主体の知覚から独立して存在している」といった素朴な意味で)「客観的」なわけではない。それはまた、(主体が意識的に経験する直感に還元可能であるという意味で)「主観的」なわけでもない。むしろファンタジーは、「客観的主観性という奇妙な範疇──自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的には事物が本当にそのように見えてしまうといった奇妙な有り様」に属している。
例えば私たちが、意識的にはユダヤ人に穏当に対処できる者がその裡に自分自身では意識的には自覚していない根深い反ユダヤ主義的な偏見を隠し持っていると主張するとき、そうした主張は、これらの偏見が、ユダヤ人が本当にそうであるあり方ではなく、ユダヤ人が彼にそのように見えるあり方を表現するという限りで、彼が自分にとってユダヤ人が実際にどのように見えているかを自覚していないということを意味してはいないだろうか?


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社

この「暗いニュースリンク」の記事に対して、僕は異議申し立て=クレイムをした。