HODGE'S PARROT

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人種学と精神分析

ナチス・ドイツの青少年団ヒトラー・ユーゲントの教師が、授業中サリーを教壇の前に立たせ、「これこそ優秀なるアーリア人の典型だ」と、髪や目の色、骨格等がいかに”劣等人種”ユダヤ人と異なるかを他の生徒に説得する下りは、アイロニックは可笑しみと同時に、ぞっとするような恐怖心と怒りを喚起させる。


「僕を愛したふたつの国 ヨーロッパ ヨーロッパ」劇場パンフレットより


アグニエシュカ・ホランド監督による『ヨーロッパ ヨーロッパ』は実話に基づいた映画である。
少年ソロモン・ペレル(映画ではサリー)はユダヤ人でありながら、ナチスドイツ時代を生き延びた。何故か。それはペレル少年が、自分はユダヤ人で「ある」、というアイデンティティを隠し/捨て、そして「アーリア人」として振舞ったことによる。映画は、彼のその数奇な運命を描いたものである。

この映画については、以前、舞城王太郎と「その取り巻き」による「差別助長」を<問題にする>ために触れたことがある。
http://www.geocities.com/wiredhodge/qper08.htm#04

しかし、そこで「問題にした構図」は、精神分析と「その取り巻き」による「差別助長」にも──やはり──通用するのではないか、と思う。とくに精神分析との関連で問題にしたいのは、ヒトラー・ユーゲントの授業で行われた「人種学(骨相学)」という「差別知」についてである。

ナチスドイツはユダヤ人を「劣等」であると広く「認知」させるために、学生に「人種学」を教える。「アーリア系学生」を前提とした「授業」においては、差別もへったくれもない。「自分たち以外」は、当然、「劣等」なのである。
問題は、「いかに劣等」であるかということを「似非科学」によって「解釈/定義/証明」することだ。

映画では、そこに、実はアーリア系ではない「差別知の対象」となっているユダヤ人が、「アーリア人として」授業を受けている。この「設定」が重要である。そのことによって、映画は、私たちに「省察」させるのだから。
私たちは、「差別知」によって、劣等、劣等、劣等、と「レッテルを貼られる」サリー少年に対して、どういう「感情」を持ったらよいのか。

この構図は、精神分析という「差別知」の「授業」についてもあてはまるのではないか。
異性愛者の学生を「前提」とした精神分析の授業において、同性愛者は、倒錯、倒錯、倒錯、と「レッテルを貼られる」。そして「いかに倒錯なのか」ということを、あのカルト宗教まがいの教説=「エディプス・コンプレックス」によって、まことしやかに「強弁」される。

「自分たち=異性愛者以外」は、当然、「倒錯」なのである。だから精神分析の授業においては、平然と、「差別言論」が交わされる。セクシュアル・マイノリティの存在は、最初から、抹殺されているのだ。なぜ自分が同性愛者であることを「隠さなければならないか」などは、まったく、省みられない。面白おかしく、同性愛が「異常」で「倒錯」であることを、人種学の授業と同様、生徒に示せばよいのだから。

「倒錯」であると、一方的に勝手に恣意的に「解釈/定義/証明」される人たちの「精神的苦痛」はまったく省みられることはない。それどころか、精神分析は、当の同性愛者に対し

恐らくサリーは犯罪者と似たような罪悪感、後ろめたい気分そして孤独を絶えず感じ

させることをまで「強要」する。

精神分析屋は、「もし自分がゲイであったなら」ということが、まったく「想定」できないらしい。そんな連中が、転移、転移とバカの一つ覚えのように唱えている。そこには、「他者性」というものが、まったくない。それが精神分析だ。