「日本の差別は根深く深刻だ」という記事が世界に(つまり英語で)発信された。
Discrimination in Japan 'deep,' U.N. rep says after 9-day visit [Japan Today]
Japan has liaisons nationwide that aim to eliminate discrimination against the "burakumin" and the Diet passed a law in 1997 to help preserve Ainu traditions and culture.
But citing cases in which the "burakumin" were listed by private groups and discriminated against in employment, Diene criticized the lack of government action to combat such practice and said, "I find this shocking and terrible."
"Japan has no comprehensive national law against discrimination," Diene said at a news conference. "I strongly recommend such a national law be drafted not only based on international instruments Japan takes part in, but that the minorities concerned have to be consulted."
国連の人権委員に指名された Doudou Diene 氏は、日本の「差別が野放しになっている現状」にショックを受けた、とある。そして、記事では、日本における外国人差別や部落差別にも触れ、包括的な「人権擁護法」の必要性を求めている。
「日本の差別体質」に対してショックを受けているのは、 Doudou Diene 氏だけではない。日本に住んでいる日本人も同様である。
それは、2005年の今頃になって、「差別と偏見に塗れた」50年も前の「ラカンのセミネール」が、「新刊として」岩波書店から出版された事実からも伺える。しかもその際、岩波書店側は、その差別的内容について、何の「フォロー」も行っていない。それどころか、「倒錯」という<差別語>を、平然と、何の留保もなく、使用しているのだ。
こんなことがまかり通るのだろうか。
もし、ナチスドイツ時代の「差別と偏見に塗れた」ユダヤ人に関する本が出版されるとしたら、いったい、どのような──政治的な──理由で「新刊として」出版されうるのか。その際、何かしらの「フォロー」が行われないだろうか。「劣等民族」という<差別用語>が、そのまま、平然と、何の留保もなく、使用されるのだろうか──そんなことが許されるのだろうか。
なぜ、岩波書店は、米国精神科医学会(American Psychiatric Association)や、米国心理学会(American Psychological Association)の同性愛・同性婚に対する見解を無視するのか。
Psychiatric Association Calls For Gay Marriage Recognition [365Gay.com]
Association of Gay and Lesbian Psychiatrists [AGLP]
Being Gay Is Just as Healthy as Being Straight
そしてなぜ、岩波書店は、各国の同性愛や同性結婚の法的認知、宗教上の承認を無視するのか──それは意図的なのか。
- http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050703/p2
- http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050705/p1
- http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050630/p1
- http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050611/p1
- http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050709/p1
- http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050702/p1
何が岩波書店をそうさせているのか。なぜ「現状の人権に照らした」チェックを行わないのか。どうせ図書館が「ノー・チェック」で購入してくれるから、ばっくれても「かまわない」と思っているのだろうか。
なぜ、日本のハンセン氏病患者の「隔離政策」が、他国に比べ、長引く結果になったのか──人権侵害がそれだけ長く続いたのか──そのことを「検証」したことはないのか?
各国の情報をすばやく感知し、それを伝えることは、マスコミ/ジャーナリズムの責務ではないのか?
一般的には、岩波書店は「人権」を尊重し、「人権問題」にコミットしている出版社と看做されているかもしれない。しかし、それは、大きな間違いである。岩波書店こそ、差別を助長し、人権を蹂躙してきた張本人である。
岩波書店は、長きに渡って、『広辞苑』において、同性愛を抑圧する言説を施してきた。差別言論を弄してきた。人権を無視し、同性愛者の尊厳を奪ってきた。汚名を浴びせ、駆り立て、スティグマを捺してきた。ラベリングしてきた。同性愛者が「息をする空間」を奪ってきた。
つまり岩波書店は、同性愛者に「社会的な死」を宣告してきたのだ──これこそ同性愛の少年・少女を自殺に導く重大な、そして決定的な要因なのではないか。
日本全国のほとんどの図書館に『広辞苑』が所蔵してあるという事実を考えると、その影響力は、他の書籍と比べ物にならない。教育現場での影響力も計り知れない。企業としての「社会的責任」ははるかに重大だ。
かつて日本の「近代」の為政者が「人為的に創出」し、長きに渡って日本全国に広めた「部落・同和差別」と同様の差別を、岩波書店は、『広辞苑』という「装置」で、いともたやすく、日本全国に蔓延させた。岩波書店は、同性愛差別を日本全国に容認/強要させた。「人権」を蹂躙しても「かまわない」と、日本全国に、布告/公認してきたのだ。
岩波書店は、同性愛者を社会的に不利な立場に貶めることによって、いったい、どんな「利益」を得てきたのか──それは「部落・同和差別」を「創設」した「時の為政者」の「政策」と何かしら通じるところはないのか?
そういった過去に対する「反省」も「謝罪」もなく、それどころか、現在でも、差別と偏見に塗れた「50年も前の科学知識」を平然と──何のフォローもなしに、差別語を使用したままで──出版している。それこそ「犯罪的行為」ではないだろうか。
しかもあの岩波のウェブサイトにある「写真で見る岩波書店」っていうのは、いったい、何なんだ。自分たちが犯してきた人権蹂躙という「犯罪」を省みることなく、まるで「プロジェクトX」のような浮ついた自画自賛で、自分たちの所業を「正当化」している。そこには「批判精神」というものが、まるでない。
それが、岩波書店の体質なのか。岩波書店は、人権というものを、いったいどのように考えているのか。
何列にもならぶ長いテーブルには、宴会の支度が整えられていた。各席に、粉乳の罐を改造したボウルがおいてある。それより少し小さな罐は、タンブラー。どのタンブラーにも、暖かいミルクが注いであった。
それぞれの席に、安全剃刀と、タオルと、剃刀の刃のパッケージと、板チョコレートと、二本の葉巻と、石ケンと、十本のタバコと、紙マッチと、鉛筆と、ロウソクがそろっていた。
ロウソクと石ケンだけが、ドイツ製であった。どちらも同じように不気味な乳白色をしていた。
イギリス人には知るよしもなかったが、ロウソクと石ケンの原料は、ユダヤ人やジプシー、同性愛者、共産主義者、その他の国家の敵からしぼりとった脂肪だったのである。
そういうものだ。
カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫)p.116
岩波書店関係者は、自分たちの子供が同性愛であったら、という「問い」にどう応えるのだろうか。それとも、岩波書店関係者は自分たちの子供は「同性愛者ではない」と確信したからこそ、会社の判断で、差別的な本を出版しても「かまわない」と判断したのだろうか。全国の図書館に差別本を配送しても「かまわない」と判断したのだろうか。
そして岩波書店は、同性愛者のいる家族のことを、どう思っているのか。
ある人物が「同性愛者であること」は「偶然」の出来事である。ある人物が「同性愛者でないこと」も「偶然」の出来事である。
ある家族に「同性愛者がいること」は「偶然」の出来事である。ある家族に「同性愛者がいないこと」も「偶然」の出来事である。
自分たちの出版している本が、他者の人権を奪い、尊厳を傷つけ、「社会的な死」を与える。そのことに対して良心の「痛み」を何も感じないのだろうか。精神分析のように、同性愛である当人だけではなく、その家族をも「攻撃」している本を出版することに、何の良心の「痛み」も感じないのだろうか。
どうしてこんなに非人間的なことができるのか。
岩波書店こそ、「スローターハウス」である。ある人間を、識別し、侮蔑し、汚名を着せ、人権を奪い、そして殺す。その「家族」までも犠牲にする。「えせ科学」で「(性)倒錯/劣等(民族)」とレッテルを貼り、この世から、この社会から、「抹殺」する。そしてそのことによって、利益を「搾り取る」。これこそファシズムではないのか。
1995年、すなわち日本の敗戦後50年を契機として、この国で戦争責任に関するさまざまな議論が起きたことは記憶に新しい。かつて日本の帝国主義=植民地支配の歴史を正確に認識し直し、東アジアにおける戦時下の犠牲者たちに関する証言から出発して「大日本帝国」の歴史的犯罪を検証する作業は、50年という歴史の区切りにあたって(それまでの長い積み重ねのうえに)正当にその精度を増し、深まりを見せた。人はたとえば「南京大虐殺」の巨大な恐るべき実態、その想像を絶する非人間性をあらためて認識し、それが戦時国際法および国際人道法に反する残虐行為にほかならないことを再認識した。
あるいは元「従軍慰安婦」の女性たちの証言から出発して、日本軍による集団的な性暴力=戦時強姦を、まさしくファルス中心的に組織化された集団=「皇軍」による犯罪として、忘却の中から審判の場へと引き出した(敗戦直後から多くの日本人がその事実をはっきり知っていたにもかかわらず、「従軍慰安婦」が公共の場で問題化されたのは──やっとこのときになってと言うべきか──1991年12月、金学順氏ら3人の韓国人女性が日本政府に対して謝罪と補償を求める訴訟を起したことによる)。
そして、それら戦争の記憶の新たな呼び返しと再認識は、日本一国の過去への反省を促すだけでなく、一方で第二次世界大戦中のさまざまな戦争犯罪の分析の再開始の機縁となり(たとえば、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅作戦に関する「証言」の集積からなる長編記録映画『ショアー』〔クロード・ランズマン監督、1985年〕の上演は、この国における10年遅れの受容の持つ意味とともに、われわれに消し去ることのできない記憶を残した)、また、他方、同時代の戦争、たとえばユーゴスラヴィアの内戦-解体のプロセスにおいて起きた「民族浄化」と名づけられた人間破壊(そこでもまた組織的・集団的強姦が繰り返された)を記録し、その発生の政治的-宗教的-心理的原因を分析することも、われわれに強く促した。
岩波書店は、上記の文章を、いったい、どのように、考えているのか。「戦後処理」が済んでいないのは岩波書店なのではないか。「問題化」されるべきは、「検証」されるべきは、岩波書店の「差別体質」なのではないか。