HODGE'S PARROT

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精神分析トラブル

こんにちの精神医学用語にはもう一つの特徴がある。それは精神病を、社会的もしくは生物学的な適応の失敗とか、とりわけて根幹的な種類の不適応とか、現実との接触喪失とか、病識の欠如とかいう。ファン・デン・ベルクがいったように、こうした専門語はまさに<侮蔑の語彙>である。


R.D.レイン『ひき裂かれた自己』(阪本健二他訳、みすす書房)

反精神医学の旗手レインは、ラカン以上に古今の哲学者を引用し、その著書はほとんど思想書のようにみえる。そしてフーコーと同様、上記の引用のように精神医学の「権力」に意識的ではあるが、しかしそれにもかかわらずフロイトを鵜呑みにして、同性愛者をパラノイア患者にしたてあげている。つまりレインも結局フロイトエピゴーネンでしかない。

そしてラカンと言えば、「日本語では読めない」著書『エクリ』の代わりに、「一般読書家」に一番良く読まれている<教科書>は新宮一成の『ラカン精神分析』(講談社現代新書)だろう。しかしここでも、「症例エメ」に関して、

右に述べた(エメの)破壊行動が現実化したあと、妄想は潮が引くように消えていった。ラカンはこの症例を「自罰パラノイア」と名付けた。ここには、同性愛的な愛情が攻撃性を内に含む事実や、罪悪感の方が犯罪に先立ち犯罪によって罪悪感が軽くなる症例についての、フロイトの観察が生かされている。エメは自らを犯罪者の位置に落とすことで、自己の理想を表すこれらの女性たちによって罰せられ、見棄てられ、見放され、かくて初めて心の平安を得たのである。

「同性愛的な愛情が攻撃性を内に含む事実」とは本当に<事実>なのか? 「フロイトという<おじさん>」(橋本治)の一方的な<観察>が、どうして正しいと言えるのだろう。
アドルフ・ヒトラーが下した<観察結果>──ユダヤ人は「病者」ある、「劣等」である──をいったい誰が真に受けたんだ。そして真に受けた結果は?)

では、「異性愛的な愛情」は、「攻撃性を含まない」のだろうか……男性による女性のレイプは「もっとも異性愛的な<愛情>」だとは言えないのだろうか、すべての男女のセックスが「レイプ」であると主張するフェミニストもいるのにだ。

攻撃性は、もちろん同性愛にもあるだろう。パラノイアの傾向を持つ人もいるだろう。しかし、それは異性愛者も同様だ。

にもかかわらず、精神分析の専門語(ジャーゴン)では、同性愛だけが、症例の「解釈」に利用され、そのように表象=代表され、結果、同性愛に対してネガティヴなイメージが──<事実>であると<事実化>され──植えつけられる。
これは「差別」である。これは同性愛に関する<侮蔑の語彙>を産出していることに他ならない。

こんな差別思想を人に勧めておきながら、「新しい歴史教科書をつくる会」の<教科書>を非難する資格がいったいどこにある? 「つくる会教科書」は、特定の集団を、フロイトのように、あるいはヒトラーのように攻撃しているのか? よく考えろ。恥知らずもいいところだ。「精神分析の教科書」こそ、人権を蹂躙している。人道に反している。