HODGE'S PARROT

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識られていることが、識られていない



スラヴォイ・ジジェクナオミ・クラインを批判している『身体なき器官』をパラパラとめくっていたところ、クライン批判とは別のところへ目が行った。ラムズフェルドの言説を分析しているところだ。メモしておきたい。

2003年3月、ドナルド・ラムズフェルドは、識られていること〔既知〕と識られてはいないこと〔未知〕との関係について、冴えた素人なら誰にでもできる哲学的見解を披露した──「識られている識られていることが在る。〔すなわち〕それは、われわれが識っていることであり、またわれわれがそうしたことを識っていることを識っている〔場合である〕。
識られていないことが在るということが識られている〔場合もある〕。これらは、われわれが識らないということを識っている、そうしたことが在る〔場合である〕。
だがまた、識られていない識られていないことが在る〔場合もある〕。それはわれわれが識らないということを識らない、そうした事が在る〔場合である〕」と述べた。

彼が付け加えることを忘れたのは、第四番目のケースで、それが重要なのだ。それは「識られていうことが〔在るにもかかわらず、それが〕識られていない」という場合である。それは、われわれが識っているということをわれわれが識らないといった事態であり、ラカンがしばしば指摘していた、まさにフロイト的意味での無意識、すなわち「みずからを識らない知」である。


もしラムズフェルドが、イラクとの直接的対峙における主要な危険を「識られていない識られていないこと〔未知あるいは非知であることが未識-非識であること〕」、すなわちそれが何であるかについて私たちが疑ってさえいないことをサダムの脅威だと考えているのであれば、それへの私たちの返答は、その反対に、主要な危険はむしろ「未知あるいは非知の〔ままにされている〕既知」、すなわち自分自身に付着していることさえ自覚され得ない否認された所信あるいは仮定である、というものでなければならない。採られるべきリスクは、これらの幻想的な識られていないことを引き受ける-想定することである。





スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社) p.187-188

身体なき器官

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