HODGE'S PARROT

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盗まれたウルトラ・アイは必ずモロボシ・ダンに届く、大文字の<他者>の語らいとしての「やおい論」




http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20041219#p1
http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20041223#p1
http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20041226#p1
http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20041230#p1
の、とりあえずのまとめとして。

しかし、人は象徴界の段階に丸ごと移行するわけではなく、想像的関係をひきずりつつ生きていくのである。それ故、主体は他者たちの声を聞きたいばかりに、自分の姿を映し出してくれると思われる他者を見つけては、その中に自分をあずけるといったことを繰り返す。
パラノイアが生ずるのはこの構造の中である。自己の姿を想像関係にある他者にあずけてしまった主体は、愛と憎しみが支配する関係に囚われていく。自分の姿をまるごと映し出していると感じられるような相手にたいしては愛を感じ、一方、自分が相手に取り込まれてしまったと思えば、自分の存在を取り戻すべく、主体は憎しみという心的エネルギーを持ってその事態に立ち向かう。


下河辺美智子『バタフライナイフは他者の語らいを希求する ラカンのL図をめぐって』(現代思想1998-10 青土社

ウルトラセブン全49話中3回、モロボシ・ダンは、ウルトラ・アイを盗まれる(『湖のひみつ』『マックス号応答せよ』『盗まれたウルトラ・アイ』)。
しかも3回とも、「地球人男性としての<仮の>姿」を取るダン隊員は、やはり「地球人女性としての<仮の>姿をした」宇宙人に、ウルトラ・アイを盗まれる。
これは偶然だろうか?
誰でも想像がつくようなカンタンな<分析>を「あえて」するならば、ウルトラ・アイは「ファルス」である。「仮の<女>」は「仮の<男>」を「去勢」する──これによって、モロボシ・ダン=<仮の男>はセブン化=巨大化を阻まれる。<仮の女>はファルスを持つ──このことにより<それ>は地球を思い通りに攻撃する邪悪な<享楽>に、真に、目覚める。
そこには、「邪魔する者」=ウルトラセブン=「父の名/否」は、存在しない。

この<分析>において特筆すべきなのは、「ファルス」はもともと「地球人男性形体生物」の持ち物であること。一方、「ファルス」を欲望し、それを──誘惑して──盗もうとするのが「地球人女性形体生物」であること。そして「ファルス」を<所有>している<もの>が、その時点においては、有利・優勢であること。しかし最後には<男>は「ファルス」を奪還し、<ファルスを盗んだ女>は死に至る。勝利は<男>のものだ。
もともと「宇宙人」には、「地球人的観点」からみた<性別/性差>はないはずだ(それとは異なるはずだ)。にもかかわらず、宇宙人の「投影による自己同一化」が、地球人の男か女によって、運命は予定調和的に決定される。

ま、冗談はともかくとして。しかし古い子供用のTV番組には抜きがたく象徴界イデオロギーヘテロセクシズム、反フェミニズム)に則っているのがわかる──それが、一種の<教育>なのかもしれない……
……と「書くこと自体」が、すでにして「使い古された」常套だ。時代遅れのカビ臭い議論でしかない。今どきそんな「家父長的抑圧<みたいなもの>」を暴いたところで、何の意味もない。

しかし、もともと「意味のない<もの/対象>」から、わざわざ「意味を探る/意味づけをする/意味を当てはめる」という「意味のない<行為>」。それが「やおい、を語る」という行為──すなわち「やおい論」だ。

ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。


スラヴォイ・ジジェク
スラヴォイ・ジジェクとの対話」(浅田彰『「歴史の終わり」を越えて』より、中公文庫)

やおい論」の特徴は、何より、まず、「なぜ男性同性愛なのか?」という<問い>を立てることにある。そしてこれこそ、差別の第一歩である。そのことが抑圧的なのである。男性向け同人誌や「非やおい=ノーマル」(異性愛もの)は、「なぜ異性愛なのか?」と<問われる>ことは、まず、ない。問われるとしたら、「なぜ二次元なのか」ぐらいなものだ──何が、「やおい」と「それ以外のもの」を峻別しているのか、もし峻別しなかったら、そもそも「やおい論」は存在しないのではないか。
(だいたい、「非やおい」を平然と「ノーマル」と呼んでいる神経がわからない。このネガティヴ性はメタ・ヘテロセクシズム、メタ・ホモフォビアと言ぶべきなのだろうか。あからさまな差別形態<ではない>だけに、それだけ根深く「いっそう危険なもの」だ)

「なぜ同性愛か」と<問うこと>。ここに、すでに・つねに、「同性愛」を「異常視」する<差別的な視点>が現前している。異性愛/同性愛という、非対称的な、階層的な、二項対立的な「カテゴリー」が、つねに・すでに構築されている──まさに、<そこ>において構築されるのかもしれない。
ゆえに、「やおい論」は必然的に差別性を帯びる。「やおい論」において差別が<産出>されると言ってもよい。これは「原理的」にそうなのである。「やおい論」は、「正常な異性愛者」が、なぜ「異常な、禁断の、同性愛<なるもの>」に惹かれるのか、という<その一点>を<説明>することにある。

やおいは「男と男の愛」であるという、その「異常性」の一点にだけ依って立っている。


高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

むろん「答え」は決まっている、決まりきっている。
やおい論」こそ、同性愛差別の、行為遂行(パフォーマティヴ)なのである。

クリステヴァはもっぱら、父の法の禁止的側面だけに自分の議論を限定してしまったために、父の法がいかに自然な欲動という形態で、ある種の欲望を産出しているかを説明できなかった。彼女が表現しようとした女の身体は、女の身体によって空洞化されるはずの法によって生産される構築物なのである。だが、父の法についてのクリステヴァの見解を批判したからといって、文化や《象徴界》は女の身体の否定に基盤をおくという、彼女の一般論を無効にするものではない。だがわたしがここで指摘したいのは、意味作用が女の原理の否定や抑圧に基づくものだという主張はすべて、女であることが、それを抑圧する文化の規範の本当の外部かどうか検討すべきだということである。


ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社

「同性愛関係を問題にする<やおい論>」の存在は、したがって、「同性愛差別」の存在とリンクしている──共犯的に、存在論的に。

メタ言語はない」のは、語る主体がすでに語られているからである。つまり、主体は自分の言っていることの効果を制御することができない。彼はつねに「言おうと思った」こと以上のことを言う。実際に言ったことのほうが意図した意味よりも多いために、抑圧された意味が言葉の中に入り込む。言葉の中で、「抑圧されたものが回帰する」のである。「抑圧されたものの回帰」としての症候とは、こうした言い間違いに他ならない。言い間違いによって「手紙は宛先に届く」、すなわち大文字の<他者>が主体に、主体自身のメッセージを正しい形で返す。


スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房