HODGE'S PARROT

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パピエ・マシン、パピエ・コレ、サンパピエ

ここのところデリダ本の出版ラッシュで、どうせ読めない/読まないからいいやと思っていたけど──『死を与える』もスピヴァクの『デリダ論』も、はや積読状態だし──、本屋でパラパラと紙片をめくっていたら、デリダドゥルーズに言及しているところを見つけて、おおっと思って、購入。

 というわけでパピエ-マシンを自宅でパラパラとめくっていたら、デリダがインターネットに言及しているところを見つけて、おおっと思った、次第。

たとえばインターネットのサイトに掲載されているものを考えてみてください。これらのページは、<自動的な出版>の空間に属していると言えるでしょう。こうして、公的なものと私的なものの区別がなくなる傾向があり、権利や正統性について、対立する主張や訴訟が増えてくる可能性があります。そして同時に公的なもの(レス・プブリカ)を私有化する動きがでてくるのです。これがいま政治におけるもっとも大きな賭け──政治的なものそのものと言えるかもしれません。


ワードプロセッサー』

デリダは旧来の「書物」は──たとえひどい本でも──「正統化のプロセス」を保護しており、「聖別」されていた、と。しかし今では、インターネットによって、すべてが「公的な空間」のうちに投げ込まれる。インターネットのサイトには、出版する価値のあるような本格的な議論が蓄積される──もちろん、何の将来性もない「たわごと」も並べられているが。

これまでの古典的な「出版の手続き」による評価の審級では、検閲の対象になりかねない場合があった。しかし現在では、議論を推奨し、発展させる可能性が生まれている。欠けているのは「紙」だけだ、とデリダは言う。

編集者や出版機構の選択が、つねに最善のものとは限りません。抑圧したり、末端的なものとして貶めたり、黙殺することもあったのです。議論が新しい形で解放されたために、どんなつまらないものでも発表できるようになるとともに、旧来の正統化の機構では制限されたり、禁止されたりするような批判の新しい可能性が生まれるかもしれません。


ワードプロセッサー』

この「批判の新しい可能性」に注目したい。それは、これまで、「やおい」は同性愛者に対する「抑圧」であるとは看做されなかった──「問題化」されなかったからだ。それどころか、まったく「反対に解釈」されてきていた。
しかし、どう考えても、「ある特定の関係」を「やまなし、おちなし、意味なし」とネガティブでバカにしきった<言葉>で呼ぶ「その感覚」は看過できない。だいたいアダルト・ショップに「女性の裸が乱舞」しているからといって、それが「女性の権利一般」に、いったい、「どんな関係」があるというのだろう。
やおい」のような、こういった、巧妙な「差別形態」こそ、「メタ差別」というものではないだろうか。