HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

搾取。慰安婦問題、同和差別問題、そして「やおい」問題


スピヴァクはリプレゼンテーションの二重の意味を考えなくてはいけないということを繰り返し言っていますね。他者を表象するということと、他者のために代弁するという二重の意味。つまり他者表象は社会関係から独立した純粋な言説空間で成されるわけではなくて、必ずそこには他者のために語っているという責任が伴わざるを得ない。つまり、他者のアイデンティティについて語るときには、それを語る自らのアイデンティティも歴史特殊的に構築されていることへの意識が必要だということではないでしょうか。


本橋哲也、上村忠男、太田好信スピヴァクあるいは発話の場のポリティックス』(『現代思想』1999/7 vol.27-8)

やおい」は、もはやジェンダーセクシュアリティだけの「問題」ではない。このような「日本独特の抑圧・差別形態」は、他の「日本独特の抑圧・差別問題」との「相同」を見出していかなければならない──そういった「日本独特の社会問題」にリンクさせなくては、「<その>差別・抑圧」が「可視化」されない。それほど「やおい」における差別・抑圧は、巧妙に成されているのだ。

このことは、以下のあまりにも<身勝手な>「やおい論」を読んで、はっきりわかった。
http://www.bl.mmtr.or.jp/~kitchen/mits/index.shtml

注目したいのは、上記の「やおい論」に見られる「あまりにも身勝手な視線」である。誰が、誰を、いったいどのように、見ているのか、だ。
そして、「癒し」と「慰安」。誰が、「癒し(慰安)」を得るために、誰を、「犠牲(搾取)」するのか。
そのとき、「犠牲(搾取)」しても構わないとされる「他者」の存在は、どのように選ばれ/産出され、どのように「表象」されるのか。

言説が引き起こす混乱は、その混乱を生み出している正体を明らかにすることなくして「戦争責任」は語りえないことを示唆している。
大越愛子は、早い時期から「慰安婦」問題の「根源的問題」を議論することが必要であるとし、「このような世界に類のない制度を生み出した日本とは、一体何なのか? このような深刻な問題を放置したまま、すまして繁栄を謳歌し、極楽とんぼに日本賛美を続ける日本人とは、一体何なのか?」と、日本的性風土を問うてきた。


西野瑠美子『戦争責任』(『現代思想』vol.29-15)

やおい」における<深刻な>差別・抑圧問題を放置したまま、よくそれを、「文化」だなんて言えると思う。
同性愛を、差別言説投入可能な「領域」=植民地としているのは、いったい、誰なんだ?