HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

ジェイムズの手紙は届かない?

ホルヘ・ルイス・ボルヘス編纂による幻想文学コレクション《バペルの図書館/La Biblioteca di Babele》。イタリアのフランコ・マリーア・リッチ社(Franco Maria Ricci)から刊行され、邦訳は国書刊行会から出ている。
この叢書、A5判変型(224X120ミリ)という、決して読みやすい体裁のものではないのだが、表紙の挿画がとにかく印象的。また、E・A・ポーやホーソンメルヴィルオスカー・ワイルドチェスタトンといった米英の「メジャーな」作家たちに混じって、イタリアの作家ジョバンニ・パピーニ(『逃げてゆく鏡』)なんてのがセレクトされているユニークさ。

[franco maria ricci 関連サイト]


で、この叢書の一冊にヘンリー・ジェイムズ『友だちの友だち』が入っているのだが、ボルヘスの序文が鋭い。ボルヘスはジェイムズついてこのように述べる。

彼は、こんにち芸術においてごく日常的なこととなっている曖昧性と決定不可能性という点にかけては、だれにも負けない大家であった。ジェイムズ以前には、小説家といえば全知の存在であり、人が目覚めると同時に忘れてしまう夢にまで踏み込んでいった。


ジェイムズは、たぶんそれと知らずに十八世紀の書簡小説から出発して、視点というもの、すなわち、物語は、誤りを犯すかもしれないしまた実際にしばしば誤りを犯す一人の傍観者を通して語られるものであるという事実を、発見したのである。


この傍観者は、他人の姿を明確に描き出すが、自分について語らなくても自分の素性を露呈してしまう。ジェイムズの読者は、一貫して一つのはっきりした疑念を抱かされるが、その疑念はしばしば読者の楽しみともなるものであるのに対し、それ以外の疑念は絶望的でしかない。テクストは事実を歪曲しているかもしれず、あるいは事実を理解できていないのかもしれず、あるいは単に嘘をついているのかもしれないのである。


そしてジェイムズは、ヨーロッパの複雑さのなかで「自己を異邦人と感じるアメリカ人」という主題を好み、やがて最後には──彼もまたすべての人のなかで異邦人であったがゆえに──「世界のなかでの異邦人なる人物」という主題に行きついた、とボルヘスは指摘する。



一方、月報で訳者の大津栄一郎氏は、ジェイムズについての興味深いエピソードを紹介する。例えばトーマス・ハーディは「ひっきりなしにしゃべりながらなにもしゃべらぬ」とジェイムズを批評したという。

ヒュー・ウォルポールは「まったく伝説的な人物だ。緑やピンクの紙テープでも吐き出すように、口から際限なく多彩な言葉を吐きつづける蝋人形を想像してもらえばいい」と言って、「よく人がまねる(だがたいてい巧くいかぬ)彼のこみ入った複雑な文章は、ジェイムズが自分の頭のなかにあるものは言葉では十分に表現できないと思っているからなのだ。そのためまた、苦心惨憺したあげく、彼が言うことはときどき結局つまらぬ、ありふれたことになってしまう。自分にとって大事な宝をどうしても巧く表現できないので、絶望して、どうせ代用品だからどんな表現でもあきらめて受けいれたといった工合なのだ」と言っている。

言葉を「どうせ代用品」だと諦め受けいれた、というのが「小説家」ヘンリー・ジェイムズの立ち位置なのだろう。