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ヘルベルト・シュッフのシューベルト&ラッヘンマン



シューマンの《クライスレリアーナ》とラヴェルの《鏡》をカップリングし、その二つの音楽に秘める暗い幻想を精妙に表現したピアニスト、ヘルベルト・シュッフ(Herbert Schuch、b.1979)の待望の新録音が出た。シューベルトとヘルムート・ラッヘンマン(Helmut Lachenmann、b.1935)という、これまた大胆で野心的な組み合わせだ。




シューベルトの2曲のソナタの前後をラッヘンマンの楽曲で挟んだプログラムがまず異色である。ただし、《シューベルトの主題による5つの変奏曲》は、当然のことながら、シューベルトの素朴なメロディそのものから始まる──「シューベルトの作品がメインのアルバム」に相応しいものだ。しかしその素材が、ときに激しくダイナミックに、そしてときに繊細で精妙な響きへと変奏されていく。シューベルトのメロディが音響それ自体へと「異化」されていく。その変化の過程に耳を奪われる。
そしてこの約8分の現代音楽がふっと終了したところで、シューベルト作曲の《幻想》、あのモルトモデラート・エ・カンタービレ/Molto moderato e cantabile の詩的で、甘い夢のような響きを持つ和音に引き継がれる。この素晴らしい効果! グッときた。

シューベルトの2曲のソナタの演奏それ自体も、優れて魅力的だ。シューマンと同様、ロマンティックな情緒と熱気を、清澄さと陰影を、確かな構成感をもって聴かせてくれる。シュッフはいいピアニストだな、と思う。そしてやはりシューベルトの音楽はいいな、と思う。……。
……と、シューベルトイ短調ソナタが終了すると、今度は、ラッヘンマンの特殊奏法を駆使した楽曲に引き継がれる。《5つの変奏曲》が「通常の」ピアノの響きを精妙に表現したものであるのに対し、《グイロ》は、その音だけを聴いていると、これがピアノという楽器の音だとは到底イメージできない。つまり普通に鍵盤を弾いているのではないのだ。ピアノの弦を直接まるでハープのように弾(はじ)いたり、基部を叩いたりする──楽音というよりもノイズのようであるし、あるいはピアノという楽器への冒涜なんじゃないかとさえ言いたくなる。ジョン・ケージの「プリペアド・ピアノ」という先例もあるが、それとはまた異なった「ピアノらしからぬ」音を要求し、ピアノという楽器の概念を「異化」させる「ピアノのための」音楽─研究(piano study)だ。CDの解説によると《グエロ》はアルフォンス・コンタルスキー/Alfons Kontarsky の示唆によって生まれたのだという。この作品は聴取の研究でもある(a study for the listener)。

それにしてもこの5分足らずの現代音楽が、ロマン派の音楽を「うっとりと聴いていた」リスナーに与える動揺は、決して小さくはないだろう。自分たちは今までいったい何を聴いていたのか、と考えざるを得ない──もちろん19世紀の作曲家シューベルトの音楽であることは確かなのだが、でも……本当に「シューベルトがメインのアルバム」を聴いていたのだろうか、と。

そういえば『作曲の20世紀』のラッヘンマンの項には次のようなことが書かれてあった。

彼(ラッヘンマン)は自分の方法論を「楽器によるミュジック・コンクレート musique concrète instrumentale」と呼んでいるが、その意図は従来の楽器の音をどのように「異化」するかという一点にかかっている。あらゆる楽器の音は、作曲史や聴取の伝統のなかですでに歴史的な意味を帯びているから、それを異化するためには、もともとの歴史的文脈に精通していなければならない。そのうえで、いかに楽器を自分独自のものに変えていくか、いかに楽器に自分独自の音を出させるかという問題が徹底して追及されることになる。





作曲の20世紀1 19世紀末から1945年まで(クラシック音楽の20世紀)』(音楽之友社)p.236-237


ヘルベルト・シュッフはラッヘンマンの方法論である「異化」作用を、楽器だけではなく、ある楽曲全体にも応用しようと試みたのではないか。そんなことを感じさせる大胆で野心的なアルバムだ。





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