偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
マタイによる福音書 7.15-16 (新共同訳『聖書』)
パリサイ派の倫理的厳格主義は、あるいはピューリタニズムに類比的だといってもいい。律法、すなわち社会的倫理の厳格な遵守を通して神の義を追及するパリサイ主義は、「マタイ伝」で中傷されているような二枚舌と言行不一致の偽善者ではないけれども、倫理的なるものの位相が社会(共同体-共同観念)と同致しているが故に、倫理の内面化、観念化を党派性とする原始キリスト教からの主要打撃的論的な攻撃を浴びたのである。
たとえば、「マタイ伝」の第六章でイエスは、「自分の義を、見られるために人の前で行わないように」と前置きして次のように述べる。施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるだろう。
続いて、同趣旨の言葉が述べられる。祈る時には、偽善者のように人前で祈らずに隠れて祈れ、断食する時には、偽善者のようにいかにもそれらしく陰気な顔を他人に見せないで「頭に油を塗り、顔を洗いなさい」等々。
今日の左翼が、資本主義体制は明らかに満足のゆくものではない(完全雇用せよ! 福祉国家を維持せよ! 移民にも十分な権利を!)と猛烈な勢いで攻撃するとき、左翼がやっていることは、基本的に、ヒステリー的な挑発のゲームである。すなわち〈主人〉に対して、彼が応えることのできない、その意味で彼の無力を暴露する要求をぶつけることである。しかし、この戦略の問題点は、体制がこうした要求に応えられないというだけではなく、こうした要求をする者が本当は要求を満たしてもらいたいとは思っていない、ということである。たとえば、「ラディカルな」学者たちが、移民に十分な権利をあたえることと移民の入国の自由を要求するとき、彼らは、この要求を文字通り満たしたら、先進西洋諸国は無数の移民者であふれかえり、それが労働者階級の人種差別的な暴力的反発を誘発し、それによって自分たち知識人の特権的な地位が危うくなるということが分っているのだろうか。もちろん彼らは分っている。もちろん彼らは分っている。しかし、彼らは、自分たちの要求が満たされないことを期待しているのだ。このようにして彼らは、みずからの特権的な地位を享受しつつ、誰にでもわかるラディカルな良心を偽善的にもちつつけることができるのである。
スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』 p.67-68 *2
グラフにするまでも無く、天下り天国指数では、圧倒的に文科省がNo.1で、続いて環境省、経産省の順となっています。文科省からの天下り先で多いのは、大学を始めとした教育機関も多いのですが、原子力機関や出版社などにも天下っているようです。文科省が相手にするのは小学生も含めて、対象とする国民の人数が多い事から、教科書一つを取っても巨大な利権なのでしょう。20mSv/yearを何としても覆さない文科省は、まさにNo.1の天下り天国である事が分かります。
ラディヤード・キプリング(ブレヒトがたたえた)は、イギリスのリベラル派を馬鹿にしていた。彼らは自由と公正を唱えながら、ひそかに保守党が彼らの代わりに必要な汚れ仕事をしてくれることをあてにしていたのだ。
スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』(松浦俊輔 訳、産業図書) p.4 *3
ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである(……)。そして、今日の「ラディカルな」学者も、これと同じ態度(やるならやってみろという態度)に出られたら、パニックに陥るのではないだろうか。ここにおいて、「現実主義でいこう、不可能なことを要求しよう」という68年のモットーは、冷笑的な、悪意にみちた意味を新たに獲得し、その真実を露わににするといえるかもしれない。
「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」。
ジジェク『操り人形と小人』 p.68
彼女の説く偽りの革命思想とは、ブルジョワはただ革命の理想を思想の問題として支持しさえすれば、実際にブルジョワの立場を捨て、階級闘争・暴力革命に参加ぜずとも、プロレタリアの側に立ったことになるというものだ。それで許されるなら、ブルジョワとしては、完全な自己否定や財産放棄をせずに済むのだから、有り難いかぎりである。しかし、そんな都合のいい革命なんて、やっぱりない。
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
『マタイによる福音書』6.24
彼女彼らは仕事をやめ、抑圧に加担することで得る、権力や特権を放棄しました。スピヴァクは、そうしたマジョリティの人々を「批判する権利を得た人々」と呼んでいます。差別構造によって得た自分たちの既得権は手放そうともしない人に、その差別構造を批判する資格などありませんから。
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「アメリカの新興学問」=クィアの横暴と欺瞞とセクシュアルハラスメントと薄汚い包摂のやり方に断固として抵抗するために
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