HODGE'S PARROT

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軟弱なスターリニズムの国のファルス=パルマコン




『新潮』(2005年5月号)掲載の蓮實重彦浅田彰の対談「ゴダールストローブ=ユイレの新しさ」が面白い。とくに両者によるスラヴォイ・ジジェク批判は痛快だ。
浅田彰は、「トリックスター」(この「用語」はユング派のものだろう、笑)ジジェクをこう喝破する。

ラカン派であれ何であれ、精神分析には分析を受けることでしか伝わらない何かがあって、それは映画作家から映画作家にしか伝わらないものがあるというのに近いんです。それを、ラカン派というのは要するにこういうものなんだよ、とマンガ的に図解した途端、それは嘘になってしまうわけです。
(中略)
……(ラカンの娘婿である)ミレールの校訂するラカンセミネールより海賊版の方が正確なのに著作権継承者として海賊版の出版を差し止めたりするといった状況になっているとき、旧社会主義政権下のスロヴェニアの反体制知識人で、ヘーゲルマルクス主義のベースを除けば、アメリカ文化への憧れから映画でも何でも貪欲に吸収してきたに過ぎないジジェクという野蛮人が無手勝流で乗り込んできて、ヒッチコックラカン的に理解するというか、むしろラカンヒッチコック的に理解してみれば、要するにこうだろう、とマンガ的に整理した、それでずいぶん風通しがよくなって、ラカン=ミレール派が世界的に流通することになったわけですね。

二人は、「冷戦下のスロヴェニアで育った」ジジェクが、ヒッチコックラカンに憧れ、「バカをやっている」というのは理解できるが、しかしそれは「冷戦が終わったら許されない」とまで言う。
さらに、そこから、ジジェクの単純化されたヘーゲル主義の「図式」を振り回して、何でもかんでも「分析」し、何でもかんでも「解決」してしまう「日本の社会学者」も批判している。

ただし、浅田は、ジジェクのパフォーマティヴな面白さは認めている(この対談でも述べているように、何しろ、『批評空間』でジジェクを日本に導入したのは浅田自身なのだから)。
実は僕もホントは「アンチ・オイディプス」だったのに、ジジェクの本をたてつづけに読んだら、すっかり嵌ってしまった。あれはつまり「マンガ的な/パフォーマティヴな」面白さに毒されたという感じなのかもしれない。たしかに面白いもん、ジジェクは。


ところで、「ヨハネ・パウロ2世、コミックのスーパーヒーローとして《復活》!」という記事を見つけた。
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081112784947.html

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、コロンビアでコミックの主人公として甦る。コミックの中では、法王は対悪魔の法衣と特別製の純潔パンツをはいて悪と闘うスーパーヒーローとして描かれている。

そういえばヨハネ・パウロ2世も「冷戦」と深く関っていた人物だ(ポーランド出身でもあるし)。
とするならば、ロドルフォ・レオン氏による「マンガ化されたカトリックのドクサ」と「マンガ化されたラカンのドクサ」は、案外、相性が良いのかもしれない……。

精神分析の幻想的・神話的な擬餌(ルアー)の仕掛けは、機能させつつ機能をとめねばならないのであり、フランス式庭園のように耕作栽培し手入れをほどこせばよいというものではないということである! しかし残念ながら、今日の精神分析家はかつての分析家にもまして無意識的コンプレックスの《構造化》とでもいうようなものの背後に閉じこもろうとしている。そのようなものを理論家してみたところで、ひからびた思想が耐えがたいドグマティズムにいたるだけであり、またその実践は彼らの介入の貧困化をもたらし、彼らの患者のもつ特異的他者性を理解しえない型通りの診断に行きつくしかない。

(中略)
精神分析や行動主義やシステム分析主義の教理問答はここに終焉する。《精神分析》関係者はこのように芸術世界と展望を同じくするために、まず彼ら自身がその頭のなかや言葉づかい、存在の仕方そのもののなかにもっている不可視の白衣を手はじめに、身をおおうすべての白衣を脱ぎすてなければならない。


フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』(杉村昌昭訳、大村書店)

三つのエコロジー

三つのエコロジー

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ

フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”へ