HODGE'S PARROT

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中抜きのアーメン



クラシック音楽ファンならば、片山杜秀の現代音楽に関する博覧強記ぶりは、言わずと知れたものだろう。どんな未知の──マニアックな──音楽を探し出してくるのか、いつも楽しみにしている。
そして片山杜秀は日本思想史の研究者でもある。だからというわけではないが、俎上に挙げる楽曲の切り口も、なかなか興味深い。文章も闊達だ。

その片山杜秀が、『レコード芸術』(2005年1月号)の「傑作!? 問題作!?」で、権代敦彦という作曲家の作品を紹介している。ここでの──僕はまだ権代敦彦の音楽は聴いていないのだが──オリヴィエ・メシアンとの相似が面白い。曰く、両者は「中抜きが好き」だと。それは権代もメシアンも、ともにカトリック教徒だからだ。

メシアンも権代も、おなじ耶蘇のカトリックの作曲家に違いねえし、しかも並大抵のカトリックと違うところも同じだが、その先がだいぶ異なる、ということさ」
「へえ、そこまで同じでも違いますか。何でも、二人ともカトリック神秘主義がどうとか」
神秘主義という言葉がいいか悪いか分からねえが、つまりは二人は中抜きが好きなんだなあ」
「中というのは、何を抜くんで?」
「宗教を信じる人間は、いちばん上と相対したい、あるいはくっつきたいと、願いがちなのさ」
「おいらのようないちばん下が、途中をとばして上とじかに結びつきたいから、中抜きですか」
「そうだよ。南無阿弥陀仏親鸞さんなら、ナンマイダナンマイダと唱えていりゃ、臨終の床に阿弥陀仏様が迎えに来てくれるというじゃないか。南無妙法蓮華経日蓮さんなら、そう唱えていると、この世が極楽になるという。弘法大師さんなら即身成仏だ。修行次第では生身で生きながら仏になれちまうんだよ」
「どれも、いちばん上の相手とじかに出会うか、自分そのものがいちばん上になっちまうか」

じゃ、二人の相違点は。メシアンは、「鳥が歌い、星が喜び、天国が見え、神さんの恩寵に浸りきり……」とゆーふうに、派手でけたたましく、そして喜びに満ちている。
しかし一方、権代敦彦の作品は「ねちねちと鬱屈」している。それは、

「神さんと出会う喜びのほかに、神さんともしも出会ってしまったときの怖さ、あるいは出会えたらいいと大それたことを考える傲慢さへの絶望、もひとつあるいは幾らそう願っても決して出会えないのではないかという恐ろしさ、そこらが込みになるのが自然ということさ。喜んでばかりのメシアンは自信家すぎるわさ」

Visions De L'amen Piece Pour Le Tombeau De Paul Du

Visions De L'amen Piece Pour Le Tombeau De Paul Du

  • アーティスト:Messiaen, O.
  • 発売日: 2004/11/09
  • メディア: CD