G・K・チェスタトンの『ブラウン神父の秘密』(The Secret Of Father Brown)を久しぶりに読み返した(他の短編も読み返そうと思う、何しろブラウン神父ものってミステリに興味を覚えたほとんど最初期に読んだものだし、したがってほとんど内容を忘れているし、それに今読んだら以前は「なんだ、これ?」──例えば『見えない男』とか──と思った作品も「犯人探し」以外のレベルでかなり興味を惹きそうだし)。
ストーリーは──以前読んだらまさしく「なんだ、これ?」というもので、つまり何も「事件」が起こらない──犯罪人=探偵だったフランボウに招かれてブラウン神父はスペインの小さな城へ。そこで威風堂々としたアメリカ人観光客チェイス氏に遭遇、様々な難事件を解決した神父への質問攻めが始める──ルコック、シャーロック・ホームズ、ニコラス・カーターらの仕事と比べて、ブラウン神父の探偵としての方法論はいかに、と。
そういった方法はない、と適当にあしらうブラウン神父。しかし食い下がるアメリカ人観光客──秘儀秘教のような「神秘的な」方法で神父は難事件・殺人事件を解決しているのではないか、というのがアメリカでの評判ですよ、現にインディアナポリスの透視術者協会は……。
透視術、千里眼、魔術、神秘……。こんなことを言われて黙っているブラウン神父ではない。観念した神父は、これまで事件を解決に導いたその秘密を語り出す。「その秘密とは……」
「つまり、あの人たちを手にかけたのは、実は、このわたしだったのです」「つまり、このわたしが自分であの人たちを殺したのです」「だからわたしには、すっかり訳がわかっていたのです」
もちろん、ブラウン神父は実際の犯行を行っていないし、殺人犯人でもない。しかし神父は「犯人に成る」。
ああいったことが、まさにどのようにして起こるものなのか、どういう精神状態ならああしたことが実際にできるものなのかを考えぬきました。そしてわたしの心が犯人の心とまったく同じになったと確信できるようになったとき、むろん、犯人が誰だかわたしにわかったのですよ。
犯罪心理の再構成ですね、というアメリカ流の捜査に擬えて理解しようとするチェイス氏に対し神父は首を振る──これは宗教修行の一法なのです、と。
ただのもののたとえなどではありませんぞ。意味あいの深いことがらについて何か言おうとすると、いつもこうなのです……言葉が用をなさなくなってしまう……ただ精神的に真実であるようなことについて話すとします。すると人は、厳然たる真実をおとぎ話めいた空想と取り違えてしまう。『わたしは霊的な意味あいで神を信じているだけです』とわたしに言った人がある。当然わたしは『そのほかの意味あいで神を信じることができますかな』と申しました。するとどうです、この人は、進化論やら道徳科学やらのがらくたのほかは何も信じなくともよいということだ、とわたしの言葉を取ってしまった……わたしが人を殺した、と申すのも、ただのもののたとえやおとぎ話ではないのです。物質的な手段を用いて殺しはしません。しかしそんなことは問題じゃない。物質的な手段を用いて人を殺すには、煉瓦のひとかけら、棒ぎれ一本でこと足りる。いったいどのようにして人は殺人を犯すようになるのか、それにわたしは思いをこらしました。わたしに殺人犯の心情が実感できるようになるまで、そのことを考えぬきました。凶行に踏みきることを自分に許しこそしなかったが、その他の点ではまったく殺人犯になりきったのです。
アメリカ人チェイス氏はそれでも納得がいかない。「探偵科学は……」とチェイス氏が言いかけたその時、ブラウン神父は、まさにそれが、二人の意見が食い違うところだ、と述べる──すなわち「科学」についての二人の認識の差が、「科学」に対する二人に態度が、である。
探偵法が科学だというのはどういうことです。犯罪学が科学だというのはどういうことですか。それは人間を内側からでなく外側から吟味することです。でかい昆虫か何ぞのように。そして偏見をまじえぬ冷厳なる光とかいうものに照らして研究しようというのだが、そんなものはわたしに言わせれば非人間的な死んだ光にすぎん。そういうことをいくらやっても、罪を犯す人間の正体は遠のくいっぽう、ついには先史時代の怪獣のようなものになってしまう。そしてたとえば《犯罪人型の頭蓋骨》などという研究に夢中になったりするのだが(人体観測学によって犯罪者のタイプを分類したイタリアの犯罪学者ロンブローソなどを想起されたい)、こうした手合いが《犯罪人のタイプ》について云々するのを聞くがよい*2。ご当人がそのタイプにはいろうなどとは夢にも考えていない。もっぱら、隣人のことを考えている。
(中略)
人間には鼻がある、夜になると眠い、そう言う代わりに、人間は一対の目の中間に吻状突起を有するものなりとか、二十四時間に一度発作的に無感覚状態に陥るものなりとかいうのが、当節の科学だ。ところで、あなたがたの言う《ブラウン神父の秘密》というのは、まさにこの反対のものなのです。わたしは人間を外側から見ようとしません。わたしは内側を見ようととする……いや、いや、それ以上だ。なぜって、このわたしは人間の内部にいるのですからな。いつも一個の人間の内部にあってその手足をあやつっているのが、ブラウンなる存在でしてな。そのわたしが、殺人犯の考えるとおりに考えるのです。殺人犯のと同じ激情と格闘するのです。やがてわたしには、殺人犯のからだの中に自分がいるのがわかってくる。こみあげてくる憎悪の念が、わたしのからだをねじ曲げ、すきあらばと身がまえるせむしの姿となる。なかば狂った頭が見えるものも見えなくし、偏執狂の狭いぎらぎらする視界に、とげとげしく血ばしった目を注ぐようになる。そこに見えるものと言えば、もう、血の池めがけて伸びる一本のぎくしゃくした眺めだけ。わたしは本当に殺人犯になるのです。
p.18-19
ブラウン神父は、これが宗教修行の一法だと繰り返す。宗教的なものなのだ、と。これが《ブラウン神父の秘密》なのだ、と。聖職者はつけ加える。
人間はどれほどの悪人なのか、どれほどの悪人になりそこなっているものなのか、それがわかっていないうちはいくら善人ぶっても何にもならん。なにか犯罪のことを聞いてしたり顔に眉をひそませたり、あざ笑ったり、一万マイルも遠方のジャングルの猿の話でもするように《凶悪犯人》のことを話したりするというのは、いったいどういう権利が自分にあってのことなのか、それをまじめに考えないうちはただの俗物にすぎん。いわゆる劣弱型だの犯罪型の頭蓋骨だのを得々として云々する思いあがり、あのパリサイ人の独善的な不遜を、自分の魂からきれいさっぱり絞りだしてしまわぬうちはだめです。ふらちな犯罪人なるものを自らのうちに見つけだしてひっ捕らえ、こいつが暴れたり狂いだしたりしないよう、同じ帽子を一緒にかぶって鼻をつきあわせて暮らしても大丈夫なよう、こいつを自家薬籠中のものとしてしまうことを念願とするようになるまでは、人間というものはどこまでもだめなものです。
p.20
他の作品でも同様のブラウン神父の言葉が響く。
「どうしてこれがみんなわかったんだ? あんたは悪魔なのか?」
「人間ですよ」ブラウン神父はおごそかに答えた──「人間なればこそ、この心のうちにあらゆる悪魔をもっているのです。」
『神の鉄槌』p.270 *3
山形和美はその著書『チェスタトン』で、このブラウン神父の探偵技法=宗教修行の一法について、それこそが神父の心の中に魂の聖化への展望を開くものだと述べる。それが神父の独自の人間観であり、しかもその人間観は悪との関わりによってしか出てこない人間の尊厳についての感覚に立っている、と。
「人間は自分がどれほどの悪人なのか、どれほどの悪人になりそこなっているか、それが分っていないうちは幾ら善人ぶっても何にもならん」。これはパリサイ的な独善的不遜への戒めである。この不遜を追放するときに、いかなる善人も悪に傾く可能性を持ち、いかなる犯罪人も聖者への道が開かれているという、いわば弛められた人間観が出てくるのだ。
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*1:[rakuten:hmvjapan:11497499:detail]
*2:”19世紀になると、イタリアの精神科医チェザーレ・ロンブローゾが著書『狂気と天才』のなかで、天才と呼ばれる多くの芸術家たちは、実は身体的・精神的な障害者なのだと決めつけたのをはじめ、多くの精神科医がすぐれた芸術家たちを神経衰弱、ヒステリー、てんかん症、ノイローゼなどと分析した。ユダヤ系ドイツ人の評論家マックス・ノルダウも自著『頽廃』で印象派の絵画を「錯乱状態を描いている」と言い、それを「頽廃的」であるとした。こうした研究が、ヒトラーに大きな影響を与えたようだ。第三帝国政府は、その政治的・美的概念に反する芸術家たちを精神病患者と決めつけ、「頽廃的」芸術家と名づけたのである。(中略)。当時、精神病患者と診断されるということは死刑を宣告されるようなものだった(実際「アクションT4」と呼ばれる極秘政策によって、1939年以降、精神病院に入院した患者たちは秘密裡に、だが計画的に殺害されていたのだ)。ナチスの理論によると、彼らは遺伝的「劣等人種」なのであり、「純粋アーリア民族」の発展のためには、生きている資格がなかったのである。”(ベッティーナ・ブラント=クラウセン『利用された精神病患者たち』、足立加代 訳、芸術新潮1992年9月号)
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