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ドナ・タートを求めて

書店に行った。待望の長編第二作『リトル・フレンド』(The Little Friend)が翻訳され、扶桑社ミステリーから8月下旬に出ると、予告があったからだ。
歓び勇んで行ってみたものの、なかった。店員に訊くまでもない。都内有数の大書店の海外文庫コーナーで、扶桑社ミステリーがある「この場所」に、その新刊がなければ、ないのだろう。

ドナ・タート(Donna Tartt)の作品は1993年発表の第一作『シークレット・ヒストリー』(THE SECRET HISTORY)が翻訳されている。『リトル・フレンド』は第二作。長編はそれだけ。とんでもない寡作である。もう一作翻訳されているのだが、それは『真実の犯罪』と名付けられた、わずか1ページの詩だ。
しかし、その『シークレット・ヒストリー』(と『真実の犯罪』)だけで、僕を夢中にさせた。爾来、僕はタートの信望者である。以前書いたレビューをここにも書いておきたい。

The Secret History (Vintage Contemporaries)

The Secret History (Vintage Contemporaries)



シークレット・ヒストリー
The Secret History (1992)

ドナ・タート / Donna Tartt
吉浦澄子訳、扶桑社ミステリー

美は恐怖である。美をなんと呼ぼうが、それを前にすればわれわれは震えおののく。



── p.76

ドストエフスキー的なストーリーを、ブレッド・イーストン・エリス的な風俗と登場人物で描く、アメリカン・クライム&パニッシュメント。エリスの作品に頻出し、登場人物を「律する」までに至る「ブランド(品)」は、ここではギリシア語と古典文学。バッコスの蛮行──宗教的エクスタシー──が、6人の学生を捉え、悲劇──ギリシア悲劇のように凄まじく暴力的でありながら美しく、気高く、エレガントな──を導く。

カリフォルニアから東部の大学に転入してきたリチャードは、学内でも特異な教授法を貫くジュリアン教授率いるギリシア語のゼミナール──極めて閉鎖的なグループのメンバーになることを許される。メンバーはリチャードを入れてたった6人。ヘンリー、フランシス、バニー、チャールズ、カミラ。彼らは全員エリート中のエリートで、リチャード以外、裕福な家庭の子女ばかりであった。

特異な講義。ジュリアン教授の授業では、現代の道徳と隔絶した古典時代の道徳、思想、精神が熱心に議論される。

ギリシア人はわれわれと大してちがってやしない。彼らは非常に礼儀正しく高度な文明を持ち、抑制のきいた人々であった。にもかかわらず、嵐のような熱狂がしばしば社会全体に吹き荒れた──ダンス、精神錯乱、虐殺、幻影──いずれもわれわれの目からすれば紛れもない狂気そのものだ。それでもギリシア人は──ともかく、そのうち何人かは──その狂気状態に自由に出入りすることができた。


(中略)


「認めたくないが」とジュリアンはふたたび語り出す。「われわれのように抑制された人間にとって、自我を失うというものはなにものにも代えがたい魅力がある。真の文明人は──われわれと同様に古代人も──もとからある獣性を強固な意志で抑えつけることによって文明人となったのだ。いま、この部屋にいるわれわれはギリシア人やローマ人とひどくかけ離れているのだろうか? 義務、愛国心、忠誠心、犠牲にとりつかれているあの人々と? 現代の目から見たら、それらはみな冷たくて恐ろしいものなのだろうか?



── p.72-73

「ローマ人の特性は、おそらくそれがローマ人の欠点であったのだろうが」と彼は続けた。「秩序という固定観念に縛りつけられていたことだ。建築、文学、法律、なにを見てもその証拠に事欠かない──曖昧、不合理、混沌は徹底的に否定する。
外国の宗教にはかなり寛大であったはずのローマ人が、キリスト教だけになぜあれほどの迫害を加えたのは、その理由や簡単だ──一介の罪人が死からよみがえるとは馬鹿馬鹿しいにもほどがある。弟子たちが正餐と称して師の血を飲むとは言語道断というわけだ。その非論理性に彼らは恐怖を覚え、それを粉砕するために全力を傾斜した。いや、実際は恐怖に駆られただけではなく、強く惹きつけられもしたのではないか、だからこそ彼らはあれほど思い切った手段に出たのではないか、と私は考える。



── p.74

ギリシア人はちがう。彼らもローマ人と同じように秩序と左右対称に情熱を燃やしていたが、目に見えない世界、神々の世界を否定する愚かさを知っていた。感情、曖昧さ、野蛮さに一目を置いていたのだ。
血なまぐさく、恐ろしいものほど時としてもっとも美しいとさっき話していたのを覚えているだろうか? あれこそ、ギリシア人の考えだ。美は恐怖である。美をなんと呼ぼうが、それを前にすればわれわれは震えおののく。ギリシア人やわれわれにとって、完全に自制心を失うほど恐ろしく、かつ美しいものがほかにあるだろうか? 人間としての束縛を一瞬にして投げ捨て、自我に付随する性質を破壊するより恐ろしいことが?
エウリピデスは酒神バッコスの巫女メナードをこう表現している。頭をのけぞらし、喉を星に向けて『人間というより鹿であった』と。これこそ完璧な自由ではないか!



── p.75

しかし学生たちは「理論」だけに収まらず、バッコスの秘儀を現代に甦らせ、それを「実行」してしまった──完璧に実行してしまった。彼らはデュオニソス神を「目撃」してしまった。理性を失し、鹿になり、狂気を呼び寄せてしまう──彼らは人(農夫)を殺してしまったのだ。

この「秘儀」に加わらなかったのは二人、語り手のリチャードとバニー。ギリシア語のゼミに入ったものの、いまいち「グループ」に溶け込めなかったリチャードは、この「秘密を共有」することにより、ようやく彼らと親密になる──仲間の一員となる。一方バニーは、リチャードと取って代わられるように、グループから脱落していき、グループにとって「好ましからざる人物」になっていく。
「グループ」はバニーの排除、つまりバニー殺害/仲間殺しをせざるを得なくなる……。

ここまでが前半で、後半は「非理性的な殺人=農夫殺し」から「理性的な殺人=バニー(仲間)殺し」を犯してしまった学生たちの、グループとしての集合離散=自滅を丹念に濃密に描いていく。これが実に圧巻だ。

この作品を読み終わった途端、僕はすでにドナ・タートの信望者になっていた。『シークレット・ヒストリー』という小説に完全に心酔している。この作品は10年にあるかないかの傑作だと思う。そしてドナ・タートは『シークレット・ヒストリー』の発表後、10年の沈黙を破り第2作『The Little Friend』を刊行した。

The Little Friend (Vintage Contemporaries)

The Little Friend (Vintage Contemporaries)


[Donna Tartt Shrine]


シークレット・ヒストリー〈上〉 (扶桑社ミステリー)

シークレット・ヒストリー〈上〉 (扶桑社ミステリー)