先週は──というより昨日まで仕事が忙しかったので、バラク・オバマが大統領に選出されたことと、カリフォルニア州で同性婚禁止条項「プロポジション8」(Proposition 8)が通過したことについて「リアルタイム」で何も書けなかったし、今も情報を整理している段階なのだが、オバマについてはともかく(民主党が勝ってくれて嬉しいが、個人的に僕は、最初はジョン・エドワーズを応援していて、その後はヒラリー・クリントン支持であった)、休日となった今日になっていくつかのゲイ・サイトを見て、やはり悲しくなった──これほどまでに容易くゲイの権利が剥奪されてしまうのか、と。
↓ の OHLALA Mag の記事と画像なんか、ああこれって僕の今の感情をまさしくそのまま表現しているな…と思った。
だが、アメリカには「希望」もある。[http://www.noonprop8.com/:title=”No on 8”キャンペーンサイト]にある「[http://www.noonprop8.com/about/who-opposes-prop-8:title=プロポジション8に誰が反対しているのか]」を見ると、実に様々な立場の人たちや様々な団体が、ゲイの権利を守ろうと声を挙げてくれたことがわかる。とても勇気づけられる。そのことに感謝したくなる。
例えばメディアでは『ロサンゼルス・タイムズ』や『サンフランシスコ・クロニクル』、『ニューヨーク・タイムズ』といったアメリカを代表する新聞を始め、数多くの地方紙、『Jewish Journal』のようなユダヤ系、『Asian Week』のようなアジア系を主な対象としたメディアも。
ビジネスでは、先日も書いた[http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20080930/p1:title=グーグル]や[http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20081030/p3:title=アップル]、そして PG&E やリーヴァイス、モルガン・ホテル、クリアー・チャンネルなど。
人権団体には、ゲイの権利擁護団体の他、全米黒人地位向上協会(NAACP)、アジア系の Asian Pacific Islander (API) Equality 、Asian Pacific American Legal Center of Southern California 、中国系の Chinese for Affirmative Action (CAA)、Organization of Chinese Americans 、メキシコ系の Mexican American Legal Defense and Education Fund 、そして日系の Japanese American Citizens League──多分この日系アメリカ人の団体の尽力によって、”No Prop 8”のキャンペーン映像の中で、第二次世界大戦中に強制収容所に収容された日系人のことが言及されたのだろう。
Discrimination
[http://jp.youtube.com/watch?v=Oj-0xMrsyxE:movie]
労働組合では教育関係者たちの団体が多く Prop.8 に反対しているし、農業労働者の団体、俳優の組合、各コミュニティ団体──ユダヤ系、アフリカ系、ヒスパニック、女性団体、エイズ患者/支援者、弁護士、大学関係者、移民の支援団体、ソーシャルワーカー、精神科医……。政治団体/ロビー団体(民主党系、共和党系、リバタリアン、緑の党など)も多種多様だ。政治家/議員──もちろんアーノルド・シュワルツェネッガー州知事も Prop.8 に反対している。
そして僕が特に注目したいのは宗教団体である。米国聖公会のような、これまでもゲイの権利擁護に積極的だった宗派だけではなく、プレスビテリアン、メソジスト、ルーテル派、フレンド派(クェーカー)、ユニテリアンといったプロテスタント主流派が多く名を連ねている。カトリックも、ユダヤ教もだ。
もちろん、同性愛者の権利に強く反対しているのも、キリスト教関係者を始めとする宗教をベースとした団体が多いのだが(とくにそういった人たちの行動が「目立つ」し、メディアもそれを強調して取り上げる傾向がある)、その一方で、信仰をベースとしたこれらの団体が、同性婚を人権問題・公民権として Prop.8 に反対してくれている──このことが、何よりも、精神的な「支え」、そう、「希望」になる。
あるいはむしろ、私は不完全で、教会は真に普遍的だということだ。世の中は種々さまざまと言うが、言ってみれば教会の中も種々さまざままなのである。私自身が独身生活を守るようにとは教会は求めはしない。けれども、私には独身生活の意味がよくわからないという事実を、私には音楽がよくわからないという事実同様、私はすなおに認めるのだ。バッハの問題と同様に、最もすぐれた人間的経験が私の手の届かぬところにあるということである。いわば独身生活というものは、家の中で私がまだその名前を──甘美な名であれ恐るべき名であれ──まだ教えて貰っていない草なのである。
だが、いつか私にもその名前を教わる時が来るであろう。
こういうわけで、結論としてこれが、単にキリスト教から断片的、世俗的な哲理を引き出すのではなく、キリスト教そのものを私が受け入れる理由なのである。つまり、単にキリスト教があれこれと真実を教えてくれるものだからではなくて、そもそも真理を告げ知らせてくれるものであることを明らかにしているからこそなのだ。ほかの哲学はみな、一見いかにも真実らしく見えることを言う。ただ一つキリスト教だけは、一見いかにも真理らしくは見えないが、しかし事実真理であることを繰り返し繰り返し語ってきた。あらゆる宗教のうちこれだけが、一見魅力的ではない点においてまさに真理の確信を与えてくれるのだ。
……キリスト教の正しさは、後になってはじめてただしいということがわかってくるのである。
(中略)
……キリスト教は、一見いかにも魅力的のない観念を説く。たとえば原罪という観念だ。ところがその帰結をよくよくたどるなら、ペイソスと同胞意識と、そして哄笑と憐れみに至りつく。なぜなら原罪があってはじめてわれわれは、乞食を憐れむと同時に王侯を妄信しない信念を得るからだ。
科学者は人間に健康を約束する。またしても一見いかにも善なるものだ。ところが後になってようやく、彼らの言う健康とは、実は肉体的隷従と精神的倦怠にすぎぬことが明らかになる。これに対してキリスト教は、いきなり地獄の深淵をわれわれの目前に突きつけて人を飛び上がらせる。ところが後になってようやく、飛び上がったのは実は一種の運動、体操のためであって、これがわれわれの健康にはこの上もない薬であったことが知れてくるのだ。後になってようやくこのことに、実は地獄に堕ちるかもしれぬ危険こそ、あらゆるドラマとロマンスの根元であることを悟るのである。
神の愛を讃えるべき最大の論拠は、一見神の愛は少しも愛らしくないという事実にほかならぬ。キリスト教のいかにも人に好かれそうもないところが、よくよく吟味してみれば、実はまさしく人の支えとなるところであることがわかってくる。キリスト教の外側には、倫理的な自己否定と専門の聖職者という、なかなか手ごわい護衛が取りまいている。だが、この一見非人間的な護衛の輪の内側には、子供のように踊り、大人のようにブドウ酒を飲む、昔ながらの人間的な生活がある。それというのも、異教的な自由の枠となりうるものは、キリスト教をおいてほかにはありえないからだ。ところが現代の哲学の場合には事情はまったく逆になる。一見いかにも芸術的で洗練され、いかにも自由で解放されているように見えるのは外側だけで、その内側にあるのは絶望にほかならぬのである。
その絶望とは何か。宇宙に何らかの意味があると心の底から信じることができないということだ。だから何らのロマンスを発見する希望もない。もしロマンスがあるとしても、何のプロットもないロマンスなのだ。秩序のない混沌の土地では何の冒険も期待できぬ。だが権威の確立した土地を旅するならば、どれほど多くの冒険でも期待することができる。懐疑のジャングルの中には何の意味も発見することもできないが、教義と秩序の森の中を歩む者には、無尽蔵の意味を発見することができるのである。ここでは、あらゆる物に首尾一貫した物語がある。
(中略)
宗教について本当の議論をしようとすれば、それはいつでも、逆様に生まれついた人間は、もし正常に帰った時、はたして自分でそれがわかるかどうか、という問題に帰着する。そもそもキリスト教の最大のパラドックスは、人間の尋常の状態が、人間の正気にして正常な状態ではないと主張することだ。正常自体が異常だとすることだ。それこそ原罪ということの真意にほかならぬ。
G.K.チェスタトン『正統とは何か』(安西徹雄 訳、春秋社) p.288-291 *1
"Ave Maria" Vote NO on Prop 8!
人間は、歓喜が人間にとって根源的なものであり、悲しみは表面的なものにすぎぬ時こそ、まさしく人間自身となり、いかにも人間にふさわしいものとなる。憂愁などは、いわば罪のない間奏曲であり、束の間に過ぎて行く弱気の状態と言うべきであって、賞讃の心こそ魂の脈動でなければならぬ。悲観論はせいぜい感傷的な半日の休日にしかすぎない。ところが歓喜は哄笑に満ちた労働であり、これによってこそ世のあらゆる物が生きて行くことができるのだ。
(中略)
歓喜は、異教徒の時代にも広く人に知られたものではなかったが、キリスト教徒にとっても巨大な秘密である。この支離滅裂な書物を閉じようとする今、私はもう一度、キリスト教のすべての源泉となったあの不思議な小さな書物を開いてみる。そして私はもう一度確信を新たにされるのだ。福音書を満たしているあの異様な人の姿は、他のあらゆる点についてと同じくこの点においてもまた、みずから高しと自信したあらゆる思想家に抜きんでて、ひときわ高くそびえ立つのをおぼえるのである。
この人の涙は自然にほとばしった。ほとんど不用意と思えるほどに自然であった。ストア派は、古代と現代を問わず、みずからの涙をかくすことを誇りとした。だがこの人はみずからの涙を一度もかくしはしなかった。日常茶飯の事物に触れて、たとえば生まれた町を遠く眺めた時にすら、面をかくすこともせず、明らさまに涙を見せて憚らなかった。
だが彼には何かかくしていることがあった。
厳粛な超人や帝国を代表する外交官たちは、みずからの怒りを抑えることを誇りとしている。だが彼は一度もみずからの怒りを抑えようとはしなかった。寺院の正面の階段から机や椅子を放り投げ、どうして地獄に堕ちないですむと思うのかと人びとに詰問もした。
だが彼には何かかくしていることがあった。
私は敬虔の心をもってこれを言うのだが、この驚くべき人物には、恥じらいとでも言うほかない一筋の糸があった。彼が山に登って祈った時、彼には、あらゆる人間からかくしているものが何かしらあったのだ。突然黙りこくったり、激しい勢いで人びとから孤立することによって、彼が人の目からかくしていることがたしかに何かあったのだ。神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれ人間に見せるにはあまりに大きすぎるものが、たしかに何か一つあったのである。
そして私は時々一人考えるのだ──それは神の笑いではなかったのかと。
チェスタトン『正統とは何か』 p.293-296
*1: