内村鑑三(1861 - 1930)が、主筆誌『聖書之研究』で毎号その巻頭に記した短文の中から、約千篇を選んで収録した『内村鑑三所感集』(鈴木俊郎 編)が岩波文庫から出ている。「所感」という短文ながら、それは当時の日本におけるキリスト者の思想の凝結体(かたまり)というもので、非常な関心を覚える。
『聖書之研究』は明治33年(1900年)に創刊され、その明治33年から43年分の「所感」は『所感十年』という書名で刊行された。以下はそのときの序文だ。
自序
所感なり、真理の直覚なり、天国の瞥見なり、信者の朝の夢なり、ゆえに簡短なり、随筆的なり、非研究的なり、しかれども浅薄ならざらんと欲す、研究の順路を示さずといえどもその熟したる果実ならんことを期す、所感なればとて必ずしも感情の発作にあらず、真正の所感は神の霊が人の霊に触るるときに生ず、ただ憾む、楽器の不完全なる、もって天の美曲を完全に伝うるあたわざることを。
現在読んでも(現在だからこそ、か)刺激的で訴えるところが大きいと思う。いくつか引用しておきたい。
神の愛と人の愛
人に憎まるるときには神に愛され、神に愛さるるときは人に憎まる。神と人とは日と月とのごとし。人望の光輝の吾人の身を照らす時は吾人が神を背に立つときなり。
p.26
罪人の宗教
われらはわれらの徳行をもって身を潔めんと欲する者にあらず、われらはわれらの全身をその汚れたるままに神に捧げて、かれの洗浄にあずからんと欲する者なり。修養鍛錬と称えて、自修自覚を教うるものは人の教えなり、信仰献身を説いて罪科の消滅を伝うるものは神の教えなり。キリスト教が世の聖人君子の擯斥するところたるはそのことさらに罪人の宗教たるがゆえなり。
p.27
われらはキリスト教の上に立たざる社会主義を取らず、われらはキリストに万事を捧げざる共産主義を頼まず。キリスト教無しの社会主義は最も醜悪なる君主主義よりも危険なり。社会主義奨励すべし、しかれどもこれをキリスト教的に奨励すべし。これをして改心和合一致の結果たらしむべし、制度法律の結果たらしむべし。
p.42
革命の希望
日本人によりて日本国を救わんと欲うなかれ、神よって日本国を救わんと欲うべし。日本人の多数は詐欺師なり、偽善者なり、収賄者なり、神の聖名を瀆す者なり。われらはかれらによりて何らの善事をもなすことにあたわず。しかれども神は日本人全体よりも強し、しかして神は日本国を愛し給う。ゆえにわれらは神に頼りて、日本人多数の意向に反して、われらの愛するこの日本国を救うをうるなり。われらは腐敗せる日本人によりて日本国を救わんとせしがゆえに失望せり。しかれども今やわれらの目を日本人より転じ、宇宙の主宰にして日本国の造り主たる神を望み瞻て、われらは満腔の希望をもってこの死滅に瀕せるわが国の救済に従事するをうるなり。「わが扶助は天地を造り給えるエホバより来る」(詩篇百二十一篇二節)、この扶助ありてわれら何事をかなしえざらんや。
p.70
犬を慎めよ
「なんじら犬を慎めよ」(ピリピ書三章二節)、当代のいわゆる批評家なる者を慎めよ、声ありて実なき者を慎めよ、毀つのみして建てえざる者を慎めよ、螫すのみにして癒しえざる者を慎めよ。なんじらかれらたるなかれ、なんじらかれらに聞くなかれ、その文に目を曝すなかれ。恐らくはかれらなんじの霊魂を殺し、なんじらは餓ゆるのみにして飽くことの何たるかを知らざる者とならん。
p.78
一致の困難
もし日本今日のキリスト信徒にして一致せんか、天下何者もこれに当たりうる者あるなし。しかれども教派分裂の弊を極むる欧米諸国の宣教師によりて道を伝えられしわが国今日のキリスト信徒の一致は熊と獅子との一致よりも難し。もし幸いにして神の霊強くわれらの中に働き、われら固有の惰性を聖化し、われらをしてキリストを思うがことくにわれらの国を思わしめ、外に頼るの愚と恥と罪とを覚らしめ給えば、一致は芙蓉の巓に臨み、琵琶の湖面に降りて、東洋の天地に心霊的一生面の開かるることもあらん。しかれどもその時の到るまではわれは今日の分裂孤立に満足せざるべからず。これあるいはわれらが人に頼ることなくして神にのみ頼ることを学ばんがための神の要旨ならん。われらは慎んで一致の到来を俟たん。神よ、願わくはその日を早め給え。
p.80-81
神の子たる特徴
キリスト教の神は是(yes)である、否(nay)ではない(コリント後書一章十九節)。かれは建つる者であって壊す者ではない。奨励するものであって非難するものではない。悪魔を称して「大いなる否定者」というはかれが神と正反対の者であるからである。すべて否定する者は悪魔である。冷笑する者、嘲罵する者、人の堕落を聞いて喜ぶ者はすべて悪魔の霊によって働く者である。われら創造しうる者となるまではいまだ自ら神の子なりと称することはできない。
p.96
「教会信者」
昔のパリサイ人とは誰ぞ、今の「教会信者」とは誰ぞ、かれらは自由の福音を化して束縛の縄となす者にあらずや。かれらに活ける信仰なし、ゆえに死せる信条をもってこれに更えんとす。かえらは責むるを知りて恵むを知らず、罰するを知りて赦すを知らず。恩恵の和気に触れて心の堅水を解かれし実験を有せざるがゆえに、かれはただ石をもって石を砕かんと欲す。冷たきかなかれら、堅きかなかれら、かれらは教会の城壁を築くための石たるに適す、神の神殿を造るための「貴き活石」たるあたわず。
p.103
成功を統計に徴す、これアメリカ主義なり。しかしてこの主義をキリスト教に応用せしもの、これ余輩の称してもってアメリカ的キリスト教と做すものなり。アメリカ人は意を真理の探究に注がずしてひとえにその応用を努む。しかしてたまたまその大建築物または多数の帰依者となりて現れるるあれば、成功を歓呼して神に感謝す。かれらは物に顕れざる純真理の美を認めず、また、統計をもって表すあたわざる霊的事業の成功を知らず。かれらは現実を愛すると称して万事の機械的なるを欲す。余輩は多くの他の点において深くアメリカ人を尊敬す、しかれども宗教の一事においてはかれらと趣向をともにするあたわず。
p.120
奇異なる現象
今や非戦論者は無神論者の中に多くして、キリスト教信者は概して主戦論者なり。神は無しという者は平和を唱え、神は愛なりと叫ぶ者は戦争を謳歌す。キリスト教、すでに陳腐に属せしか、キリスト教信者、堕落を極めしか。キリスト教を棄てんか、キリスト教信者を斥けんか。余輩はキリスト教を棄つるにあたわず、ゆえに止むをえず、今日世に称するキリスト教信者なる者を排斥せんと欲す。
p.137-138
日露永久の平和
ロシア人はいう、憎むべきかな日本人と。日本人はいう、憎むべきかなロシア人と。しかれども神はいい給う、愛すべきかな日本人、愛すべきかなロシア人と。神の心をもって見てロシア人は日本人にとり愛すべき者となり、日本人はロシア人にとり愛すべき者となる。日本人とロシア人とは神によりて今日直ちに永久の平和を結ぶべし。
p.142-143
愛の波動
ある人、神の愛に感じ、これに励まされてわれを愛せり。われその人に愛を感じ、これに励まされてある他の人を愛せり。かれまたわが愛に感じ、これに励まされてさらにある他の人を愛せり。愛は波及す、延びて地の極に達し、世の終りにいたる。われも直ちに神に接し、その愛をわが心に受けて、地と愛の波動を起こさんかな。
p.143
強国の祝賀
強国たる必ずしも聖国たるの謂にあらず。英国は強国たるもその中に窮民の多きこと世界に比なし。米国は強国たるも銭魔崇拝の盛んなる字内第一なり。もし人はパンのみをもって生くる者にあらざれば、国もまた富強をもってのみその価値を定めるべきものにあらず。貧者にして清士あるがことく弱国にして聖国あり。強国たること必ずしも祝すべきことにあらざるなり。
p.164
パリサイ人とは誰ぞ
パリサイ人とは必ずしも偽善者にあらざりき、模範的パリサイ人とは信ありて愛なき者なりき。かれらは言えり、神を信ぜよ、されば救われるべしと。これに対してイエスは言い給えり、神を愛せよ、されば救わるべしと。イエスとパリサイ人との衝突は愛を信との衝突なりき、より狭き信がより博き愛の優勢権を認むるあたわずしてこれを十字架に釘けしことなりき。二者同じく神に事えんとせり、パリサイ人は信をもって、イエスは愛をもって。ゆえにかの神聖なる悲劇ありたり。
p.165-166
キリスト教の三敵
世はいずれの世にもピラトあり、サドカイ派あり、パリサイ派あり。ピラトは政権を、サドカイ派は学閥を、パリサイは教会を代表す。しかして三者相集まってキリストを十字架に付す。ピラトはキリストの不忠を責め、サドカイはキリストの無学を嘲り、パリサイはキリストの不信を呪う。三者同じく愛において欠くるところあり、ゆえに神の愛子を迫害す。われもまたかれらの憎むところとなりてキリストの弟子となりしを知るべし。
p.170
世界最大の者
智識をもって腕力に克つべし、信仰をもって智識に克つべし、愛をもって信仰に克つべし。愛は進化の終局なり、最大の能力なり。愛に達してわれらは世界最大の者となるなり。
p.171
- 作者: 内村鑑三,鈴木俊郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1973/12/01
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