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「非-宗教」から「超-宗教」へ 『靖国問題』より



高橋哲哉の『靖国問題』から第三章「宗教の問題──神社非宗教の陥穽」についてメモしておきたい。とくにキリスト教との関係で。

宗教の問題が浮上してくるのは、首相の靖国参拝に対して、憲法政教分離規定に基づいた「違憲」の確定判決が複数存在していることによるものだ──「合憲」の確定判決はひとつもない。したがって、公式参拝を定着させたい人々がとりうる選択肢は、

  1. 憲法政教分離規定を「改定」する
  2. 靖国神社を宗教法人でなくする

になる。そして後者の靖国神社の「非宗教化」は、実は、戦前・戦中に行われていた──巧妙な仕掛けによって。
明治政府は「祭教分離」によって「祭教一致」を実現させた。神社神道を「国家の祭祀」と規定することによって、仏教やキリスト教といった<宗教>から区別する──それが「祭教分離」である。仏教やキリスト教を<宗教>として認めて一定の「信教の自由」を与えるが、その一方で、神社神道は「国家の祭祀」であるから──非-宗教であるから──どんな<宗教>を信じる者も日本国民であるかぎり「みんな」、その祭祀儀礼を受け入れなければならない、という「仕掛け」である。

「神社は宗教にあらず」という「神社非宗教」論は、この「祭教分離」の別名である。「神社神道」はこうして、自らの「宗教」性を否定して「国家の祭祀」となることによって「国家神道」となる。国家神道は一方で、伊勢神宮を頂点とする神社制度を一大国家システムとして確立し、他方では、神道の教義を天皇の国家=皇国への忠誠と愛国心を中心とする国民道徳にまで非宗教化する。国家神道はこの結果、全国民、全宗教を自らのうちの取り込む「超宗教」となったのである。


(中略)


「超宗教」としての神道、「神の道」こそ「帝国臣民の辿るべき唯一の道」であり、天皇に忠誠を誓う「皇道」としての「愛国心」であって、仏教やキリスト教を信じるのは各人の「自由意志」であってよいけれども、しかしその自由意志は決して「反抗」したり、「異議を申立て」たりしてはならない。




高橋哲哉靖国問題』(ちくま新書) p.129-131

自由意志による「異種雑多なる宗教の存在」は、あくまで国家神道すなわち「愛国心」への「絶対的服従の義務」の枠内で許される。日本国民は「みんな」その義務を果たさなければならない。
この状況下で、満州事変の翌年1932年、熱心なクリスチャンだった二人の上智大学学生による「靖国参拝拒否」事件が起こる。新聞に書きたてられ大問題になり、陸軍省上智大学からの配属将校の引き上げを実施、反カトリック・キャンペーンに発展する。上智大学は存亡の危機に見舞われたが、学長・神父・学生がこぞって靖国神社に参拝し、「忠君愛国の士を祀る神社に参拝することは、国民としての公の義務に関わることであって、各自の私的信仰とは別個の事柄であることを了解」したと文部省に伝えた。

ここには、「神社非宗教」あるいは「祭教分離」の絶大な効果が看て取れるであろう。「愛国心と忠誠」の表現である神社参拝は「国民としての公の義務」であり、「各自の私的信仰」であるカトリック信仰とは、矛盾せず両立する。「国家の祭祀」と「宗教」は「家憲」と「自由意志」の関係にあり、矛盾せず両立するのだ。この関係は、国家と宗教者の双方にとってメリットがある。国家は「異種雑多な宗教」と対立することなく、神道を「帝国臣民の辿るべき唯一の道」として押しつけることができる。宗教者は、神社参拝を「国民としての公の義務」として果たすかぎり、国家と対立せずにキリスト者や仏教者でありつづけることができる。




靖国問題』 p.133

カトリック教会は、太平洋戦争中の1944年7月8日、「国民総決起集会」に協力するとして、伊勢神宮明治神宮靖国神社に教団代表者を参列させた……。

プロテスタント教会も同様である──日本基督教団は「我ら基督信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすをもって第一とする」と宣誓文に明記する。日本基督教団統理の富田満は伊勢神宮に参拝し、天照大神に教団の発展を祈る。さらに彼は日本統治下の朝鮮を訪問、神社参拝の強要に抵抗していた朝鮮のキリスト教信者に対し「説得」をする──神社参拝は国家の儀式であって、<宗教>ではないのだから、と。

「諸君の殉教精神はりっぱである。しかし、いつわが(日本)政府は基督教を捨て神道に改宗せよと迫ったか、その実を示してもらいたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したにすぎまい。[中略]明治大帝が万代におよぶ大御心をもって世界に類なき宗教の自由を付与せられたものをみだりにさえぎるは冒涜に値する」(「福音新報」1938年7月21日)。


富田のこうした説得がひとつのきっかけとなり、その後、平安南道平壌の長老教会で次々に神社参拝決議が挙げられる。「国家の祭祀」と「宗教」の分離は、日本のキリスト者が朝鮮のキリスト者に「転向」を迫る切り札にもなっていたわけである。
だが、それにもかかわらず、朝鮮キリスト者の神社参拝拒否運動は続けられ、総督府の弾圧によって投獄されたキリスト者二千人のうち、約七〇人が神社参拝拒否によるもので、そのうち五〇人が獄死したと言われる。





靖国問題』 p.135

高橋哲哉は「靖国の英霊」という、1944年に日本基督教新報に発表された文書を全文引用する。(ウィキソースにも全文が掲載されていた。必読)
→ 靖国の英霊 [Wikisource]


これは当時のキリスト教が「神社非宗教」つまり「祭政分離」の狡知に完全にはまってしまったことを如実に物語るものだ──それは、高橋も言うように、実に「無惨」なものある。

キリスト者たちははじめ、「祭祀」と「宗教」を分けること、「国民としての公の義務」と「各自の私的信仰」を分けることで、自らの「宗教」と「信仰」の領域を確保できると考えたかもしれない。しかし実際に起こったのは、「祭教分離」が「祭教一致」を帰結するというパラドキシカルな事態であった。「宗教」たるキリスト教は、「国家の祭祀」たる靖国信仰に完全に呑み込まれてしまったのであった。「国家の祭祀」と「宗教」の分離は、「宗教」の「国家の祭祀」への完全吸収という事態に帰結したのである。




靖国問題』 p.139

その本質上宗教であっても、表面は決して宗教のように思われぬもの──それは宗教の「倫理的カモフラージュ」なのである。高橋は、この「倫理的カモフラージュ」が今日もまだ続いていると指摘する。キリスト者遺族の会の合祀取り下げ要求に対して──それは「宗教ではない」(非-宗教)、だから「宗派を超えて」(超-宗教)、日本人ならだれでも「みんな」崇敬すべき「道」(道徳)である、といった仕掛けで。