クロード・ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》をバレエ化した映像が YouTube にあった。かの有名なヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Nijinsky、1890 - 1950)の振り付けによる『牧神の午後』(L'après-midi d'un faune)を再現したもののようだ。
L'Apres-midi d'un Faune - The Paris Opera Ballet
1912年5月25日に初演されたドビュッシーの『牧神の午後』はスキャンダラスな中傷の標的になった。マラルメの詩に想を得たこのバレエを振り付け、かつ主役を演じたのはニジンスキーである。アールヌーボー風の舞台装置と衣装はバクストが担当した。ローマ神話に登場する角としっぽをもつ牧神が若いニンフに恋する物語だ。
体にぴったりの衣装さえ不謹慎とされた時代にニジンスキーはレオタード姿で登場した。
彼がニンフの残したヴェールにうつぶせ、両手を腰の下にあてがい、体を激しく小刻みに震わせながら性の快楽にふける最後の場面にいたり客席は呆然と息を呑む。伝統的バレエに求められる慎みは木端微塵に破壊されたのだ。古典的な浅浮き彫り(パ・レリーフ)や花瓶画に描かれた肖像を意識してか、ダンサーは演技の最初から終わりまで横顔をみせている。歩くのも走るのも、動きはほとんどすべてが横への移動。足は常に踵から爪先の順につき、両足を支えにぐるりと体をまわしては両腕と頭のポジションを変える。
『ル・フィガロ』の編集長ガストン・カルメットは舞踊記事を委嘱しているロベール・ブリュッセルの批評記事を差し止め、みずから一面に記事を書き、『牧神』は「美しい牧歌でもなければ深い意味のある作品でもない」とこきおろした。「観衆がみたのは卑猥な牧神だ。エロティックな動きは不潔で獣欲的だし、しぐさは粗野で猥雑である」と。
モードリス・エクスタインズ『春の祭典 第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』(金利光 訳、阪急コミュニケーションズ) p.52 *1
『ル・フィガロ』紙のカルメット氏は、この異教的な異性愛的ロマンスに対して、すいぶんとお怒りのようであるが……でも、これ、なかなか楽しいじゃないか!
ニジンスキーの映像、というか彼の写真を集めたバイオグラフィーもいくつかあった(とくに J.S.バッハの《ゴールドベルク変奏曲》を使用したものは、GJ!)*2
Nijinski
Vaslav Nijinsky 1890-1950 - НИЖИНСКИЙ, ВАЦЛАВ ФОМИЧ
ところで、前述した『牧神の午後』を徹底して叩いたガストン・カルメット氏(Gaston Calmette、1858 - 1914)の「その後の」エピソードが興味を惹く。『フィガロ』の論調は現在では保守、中道右派であるらしいが──もちろん、フランス語なので読んでないけど(笑)──当時からそうだったのだろう。エクスタインズによれば、カルメットは次のターゲットにオーギュスト・ロダンを選んだ。そのロダンはニジンスキーの擁護に回ることになる。カルメットはロダンを「国民の税金を無駄にするふしだらな道楽芸術家だと」応酬する。そしてカルメットはさらに前首相でドゥメルグ内閣の大蔵大臣を努めていたジョゼフ・カイヨー/Joseph Caillaux をも標的にする──カイヨーは左派で、ドイツに対しは非戦のスタンスで知られていた。カルメットは公私にわたる攻撃をカイヨーに対して行ったようだ。
そして事件は起こった。1914年、ジョゼフの妻アンリエット・カイヨーはタクシーで『ル・フィガロ』社に乗りつけ……編集長室に入り、カルメットに向けて拳銃を発射。カルメットは四発の銃弾を浴び、死亡した……。
A Monsieur Gaston Calmette Comme un témoignage de profonde et affectueuse reconnaissance, Marcel Proust. ガストン・カルメット氏に 深く心からなる 感謝のしるしとして マルセル・プルースト 『スワン家の方へ』の献辞(集英社文庫版『失われた時を求めて』)より |
一般的な(誤った)認識によれば、古代の異教は嬉々として生を肯定し、キリスト教は自制や罪の意識からなる陰鬱な秩序を押しつけることになっている。だが、チェスタトンはこの認識を逆転する。この認識とは逆に、憂鬱に浸っているのは異教のほうである。たとえ異教が喜びに満ちた生を説くとしても、それはあくまで「生きているうちに人生を楽しめ、結局すべては死に、朽ちるのだから」というかたちをとるのだ。
反対にキリスト教は、表面上は、自制や罪の意識を装っているが、その仮面の下では無限の歓喜を説いている。「キリスト教の外側には、倫理的な自己否定と専門の聖職者という、なかなか手強い護衛が取りまいている。だが、この一見非人間的な護衛の輪の内側には、子供のように踊り、大人のようにブドウ酒を飲む、昔ながらの人間的な生活がある。それというのも、異教的な自由の枠となりうるものは、キリスト教をおいてほかにはありえないからだ」*3
トールキンの『指輪物語』は、このパラドクスの究極の証明になっていないだろうか。敬虔なキリスト教徒でなければ、そうした壮大な異教的宇宙を想像することはできなかったであろうし、またそれゆえに、異教精神がキリスト教にとって究極の夢であるということを裏付けることもできなかっただろう。その意味で、『指輪物語』やハリー・ポッター・シリーズのような本や映画が異教的魔術というメッセージを通じていかにキリスト教に害を与えているかについて懸念を表明する保守的なキリスト教徒批評家は、的をはずしている。つまり、彼らは、ここで不可避な結論として出てくる倒錯──あなたは快楽に満ちた生という異教的な夢を享受しながら、なおかつ憂鬱な悲しみはいだきたくないと思っているのでしょう? だったらキリスト教を選びなさい!──を分かっていないのだ。
スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』(中山徹 訳、青土社) p.73-74 *4
レオン・バクスト Leon Bakst (1866 - 1924) 『牧神の午後』のニジンスキー |
Faune y qui mal y pense.
(『牧神』に思いよこしまなるもの、半人半獣の〈牧神〉にならん)
[関連エントリー]
*1:
*2:ニジンスキーに関する本をいくつか。
*4: