HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

福音的背理主義/Evangelical Irrationalism



アリスターマクグラスAlister McGrath、b.1953)の『ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割』より、宗教改革の思想とそこから導き出される神学者のスタンスについて論じている部分をメモしておきたい。マクグラス北アイルランドのベルファースト生まれの神学者で、オックスフォード大学神学部歴史神学教授、ウィクリフ・ホールの学長を務めている。英国国教会聖公会)内における福音派だ。

マクグラスの議論で興味深いのは、マルクス主義を通過した神学者らしく、冒頭の神学および神学者の役目(モデル)を論じている場面で、いきなりアントニオ・グラムシ/Antonio Gramsci の名前が出てくることだ──しかもそのイタリアの共産主義者に対し多大な評価を与えている。
一般信徒は、神学者に対して「よそよそしい」「日常生活の下世話な問題に通じていない」「一般信徒とは全く異なる問題意識を持っている」「なにが言いたいのか全く理解できない」という印象──というか本音を抱いている。すなわち、専門神学研究と教会生活のあいだには「きわめて深い溝が大きく口を開けている」のだ。しかし、だからこそ、神学者マクグラスは、信仰の共同体に、「その内側から仕えるべく召された」「愛と慈しみを持った」神学者の模範(アプローチ)が必要だと唱える。

このアプローチは、マルクス主義者アントニオ・グラムシ(1891-1937)によって展開されました。彼は、自らが提唱する「有機的知識人」のパラダイムを、16世紀宗教改革に求めました。現代の教会における神学の正しい位置づけを再発見しようと試みるとき、これは極めて重要な概念です。


グラムシは、二種類の知識人があると論じます。第一の知識人は、外的権威によって、共同体に押しつけられる、いわゆる「伝統的知識人」で、その共同体によって選ばれたのではなく、その権威が実際のものである限りにおいてのみ、その共同体に影響力を及ぼします。これとは好対照をなすものとして、グラムシは「有機的知識人」を推奨します。これは共同体の内にあって形成され、その共同体の展望を代表すると認められるがゆえに権威を持ちます。つまり、その権威は、御着せではなく、自然に出現するのであって、共同体が自分たちを代弁する知識人・文化人であると積極的に見なし、敬意を表することの反映です。


神学者のこの規範は益するところ甚大です。教会の一般的信徒や牧師が抱懐する、「神学の専門家」不信と響き合います。この根深い不信感は、1960、1970年代に横行した無責任の結果です。


神学者は今こそ評判と支持を取り戻さなければなりません。徐々に尊敬と権威を獲得するためには、共同体の風潮や行動様式にしっかり根ざして表現する能力や、教会および教会員の福祉を願う思いが問われます。福音主義陣営について申せば、ジョン・W・ストットなどは、この「有機的知識人」の典型的な実例でしょう。仰々しい学問的肩書きなど一切持ち合わせておりません*1。しかし、英国国教会内、さらにはそれを超えて、世界的な信望を持っています。その尊敬は彼が自ら勝ち取ったものです。人々は、彼を尊敬に値すると認めたがゆえに、彼の権威を受け入れるのです。このように、彼と彼が責任をもって語りかける共同体の間には、有機的で自然な関係があります。




A.E.マクグラス『ポスト・モダン世界のキリスト教』(稲垣久和 訳、教文館) p.13-14

ここには、マクグラスマルティン・ルター(およびカルヴァン)の宗教改革を評価するスタンスと響き合う。すなわち「外的権威に基づく伝統的知識人」をカトリック教会側に見ているのだ。

新約聖書を読んで、その意味をある程度理解することはだれにでもできるでしょう。しかしルターは言います、真の神学者とは、罪に対する裁きを経験した者である。そのような者が新約聖書を読めば、赦しのメッセージが自分のためのよきおとずれであることを悟るのである、と。新約聖書を文学や文献として読むことはたやすい。でも、ルターは私たちの注意を喚起します。罪の自覚があってはじめて、新約聖書の深い意味合いが体得される、神はイエス・キリストを通して私たちの罪を赦してくださったという宣言の驚きを味わいうるのである、と。


ルターの『ローマ書講解』(1515-16)においても、同様の点が見られます。勤勉なる学者でありながら、とルターは論じます、新約聖書の意味するところを全く理解しそこなうことはありえるのだ、と。

多く読み多くを架蔵するエライ学者が、もっともよきキリスト者なのではない。学者が本で読み、人に教えることを、進んで喜んで行う者、それが、もっともよきキリスト者である。たくさんの本を書いては学者を気取りながら、キリスト者たることの意味を皆目わかっていない連中は、私たちのこの時代に対する警鐘である。


『ポスト・モダン世界のキリスト教』 p.29

ここでマクグラスはルターの「十字架の神学」(Theology of the Cross)について注意を与える。「十字架の神学」の中心テーマは、「この世が弱く愚かしく低いと見くだされものを神は尊ばれるという」矛盾にある。それは「人が無価値と斥けるもの」を通して(媒介して)機能する。十字架の神学は、理性批判であり、経験批判である。人は、ただそこにおいて信仰の試練に差し向けられる──自身が十字架上において「苦しみと弱さによって啓示なさった」神を、そのまま、受け入れることにある。神の「隠された啓示」を受け入れなければならない。
「はっきり言っておく。キリストを知らぬ者は苦しみに隠された神を知らない」とルターは記す。さらにルターは、フィリップ・メランヒトン/Philipp Melanchthon へ宛てた手紙の中で、自称〈預言者〉たちに対し「おまえたちは、霊的絶望と神的誕生と死と地獄を経験したことがあるか」と問いただせ、と書き記した──〈預言者〉を僭称する連中は「人の子のしるしを帯びていない」のだ。

ただ微妙なところなのだが、「キリストとともに苦しむ」という信仰者を十字架に向けさせるのは、それは決してキリストの「模範を模倣する」ことではない、ということだ。模倣(ミメーシス)の霊性は、中世的な──すなわち宗教改革以前のカトリック的な考えで、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』がその代表である。ルターが強調するのは、そうではなくて、「キリスト者は、キリストの似姿に変えていただかなければならない」という点である。「能動的に」キリストに倣うのではない。「受動的に」キリストに似たものへと変えていただくのである。受身の態度(スタンス)が重要なのだ。


ここでは神と人間の対応は原像と模像のそれではなく、形を与える封印と形を受ける封蠟の、凹凸を違えたそれである。神を絶対の恵みとして啓示することによって、「働き」・「構築」の主体としての実体ではなく、存在・生命・人格性が神という絶対の「外」から与えられるという関係を根底とする人間理解、あるいは自己認識を呼びかけるもの、それが言葉となった十字架であり〈神の言葉〉であると捉えられた。


……言葉というものが、通常そうであるように「名付けること」による世界構築や、「語ること」あるいは「語り得ぬこと」をめぐって表出の問題として省察されるのではなく、むしろ「聴くこと」のもつ根源性に光があてられた……。


神学的な伝統との関係で考えるなら、名付けによる世界構築の問題は創世記二章のアダムによる最初の名付けをモデルとして得、また三位一体の神の自己発出という教義が、自己観照と言葉による自己表出をモデルとして思考されてきた。アダムによる名付けは、神の言葉による創造のなぞりという位置を持つから、どちらの場合も、神と人とを循環的に原像と模像として考えてゆく構造に、言語をあくまで能動性から考える基本スタンスが合致してくる。


それに対してルターの言語把握は、見てきたように封印と封蠟の対応と捉えられる神と人の対向を場としているため、言語においても受動的局面が注目を得たとひとまず言えよう。
しかし受動的局面といっても、「聴くこと」は、すでに「聴き取ること」において同時に能動である。言葉を受けるという受動、それを聴き取り、受け入れる(「義とする」)か斥ける(「裁く」)かという能動、さらに、受け入れるといっても、受け入れる内容が絶対の受動であるから、存在の根底として絶対の受動を受け入れるという受動的能動あるいは能動的受動、そしてそこから生まれる「善きわざ」としての能動。




松浦純『十字架と薔薇 知られざるルター』(岩波書店) p.184

信仰は、外面的に、キリストを真似る人の行いなのではなく、神が私たちをキリストに似たものへと変えてくださる手段なのです。ルターのいう「キリストに似たものへと変えられる」ということは、私たちの内部に働く神の力の表明であって、人間的努力でキリストを模倣するというのではありません。
「『キリストに似た者へと変えられる』というのは、我々が自力で達成しうる目当てではない。それは、我々の行いではなく、神の恵である」。
ルターがはっきり言っているように、キリスト者たることは、苦しみを探し求めることでも、ことさらにキリストの苦しみを真似ることでもありません。そうではなく、キリストに似た者へと変えていただくよう神に委ねる者、キリストの苦しみに与る者が、キリスト者なのです。




『ポスト・モダン世界のキリスト教』 p.30

ポスト・モダン世界のキリスト教―21世紀における福音の役割

ポスト・モダン世界のキリスト教―21世紀における福音の役割

十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)

十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)




[関連エントリー]

*1:ただマクグラスさんは十分すぎるほどの「肩書」を持っているけどね。