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”教会側は、いつもこの手をとる”



酒井健の著書『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』を読んでいて(読み返していて)、ちょっと記憶に留めておきたい「事例」があった──この著書では教会、すなわちキリスト教の布教戦略として興味を惹く事例なのだが、他の、例えば他の様々な「政治的な」文脈でも同様の戦略が感じられる場合がある、あるいは感じてしまう時がある。そのことを考えるためにも、まずこの本で示されている論点について整理しておきたい。

ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (講談社現代新書)

ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (講談社現代新書)

ゴシック様式の大聖堂は、「ノートル・ダム」(Notre-Dame)という呼称と密接に結びついている──つまり聖母マリア民間信仰と、である。イギリスにおいてもゴシック大聖堂には「レディー・チャペル」という名の聖母礼拝堂が付られている。
酒井氏は、聖母信仰とゴシック大聖堂との結びつきを、都市化現象という視点から読み解いていく。
農村には、地縁、血縁両方の厚い人間関係があった。同じ土地を共同で耕すという大地に根差した共生感、同じ血で結ばれているという肉体からの一体感──そうした「親密な」人間関係のつながりが農村にはあった。しかし都市にはそれがない。まわりは他人ばかりである。

勃興期の都市の住民は、農村から出て来て、それまで体験したことのない異邦人同士の世界に、互いに疎遠は他者たちの群れのなかに身を投じた。郷土を離れ根無し草の境遇になって見知らぬ者たちの間で暮らす彼らの不安は、これほどの都市化現象が西ヨーロッパ史上初の出来事であったわけだから、19-20世紀の都市民の不安とは比べものにはならない深さを持っていただろう。彼らはこの深い不安を消してくれる新たな共生の原理を切に求めていた。



酒井健『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』(講談社現代新書) p.31

都市には職種に応じてギルド(同業組合)があり、さらに各ギルドを横断するコミュースという制度があった。しかしギルドにしてもコミュースにしても親方─職人─徒弟という厳しい上下関係の支配する場、無味乾燥な法的制度であったにすぎない。しかも農村から都市にやってきた者すべてがギルドに加入できたわけではないのだ──ギルドにしてもコミュースにしても、それらの埒外に置かれた人たちが多数、存在していたのだ。
「誰もが救われる普遍的な宗教原理」──そのような都市の民衆の〈欲求〉が聖母マリア信仰を呼び起こし、一挙に、広まっていった。

その火付け役となったのは、当方起源の信仰で、ギリシア帰りの修道士によってイギリスに持ち込まれたノルマンディー地方、リヨン、そしてパリに伝播していった「聖アンナによる聖母マリアの無原罪懐妊」の信仰(マリアの母アンナが接吻だけで身ごもったという信仰)である。この信仰がフランスで祝日(12月8日)として祝われるようになったのは1130年、ちょうどノートル・ダムなる言葉が使われだした頃だ。パリでは1166年のこの祝日に民間主導(ノルマンディー地方出身の学生が中心)で大規模な祭典が催されたという。



『ゴシックとは何か』 p.32-33

*1

ジュリアが切り出した。「男も女もない、存在するのは母と子だけだというのがヤブキさんの意見だとか」
「ええ、男の現象学的な意味は母の子であり子の母でありえぬものですから」



笠井潔『吸血鬼と精神分析』(光文社) p.352 *2


もちろんこのような「母なるものへの信仰」自体は、キリスト教下の12世紀に始まったものではない。異教信仰として、それぞれの土地に根ざした、それぞれの地母神崇拝というかたちで、古くからヨーロッパに存在していた。小アジアフリギア地母神キュベレ古代エジプトのイシス、古代ギリシアのデルメル、ゲルマン神話のペルヒタやホレ、ケルト信仰におけるアナ……。
酒井によれば、西ヨーロッパ内陸の地母神信仰は、各地域、各部族、各農村ごとに独自の展開を見せており、農村から北フランスの諸都市に流れ込んだ者たちも、それぞれの出身の農村で固有の地母神を崇拝していたという。
しかし、だ。都市に出てきた以上は出自の固有性を捨てねばならない。なぜなら、根無し草たちが「各自の根」を強調しだすと、ますます断絶が深まって、相互の不安は増す。「特殊な根」を止揚し、普遍的なレヴェルで地母神崇拝を実現する必要があったのだ。
聖母マリアはその普遍性をそなえていた。

ただし新約聖書正典の中の聖母マリアではいけなかった。なぜならば、正典のマリアは〈神の母〉(=イエスの母)ではあっても、天上の父なる神への信仰より下位に置かれていたからだ。天上の父なる神は自然界を超えて存する。地母神は母なる大地の神、自然神である。
少しでも母性を強く肯定しそのことで自然との結びつきを保持しようとするならば、正典の外へ、つまり教会側によって正統性を認められていない外典、偽典の方へ出てゆかなければならなかった



『ゴシックとは何か』 p.34

「聖アンナによる聖母マリアの無原罪懐妊」も外典に出自している。酒井氏は述べる「ゴシックの時代の都市民は、多種多様のローカルな地母神崇拝を普遍的な次元へ高める必要に迫られていた。キリスト教聖母マリアはこの要請に応えるものだった。ただし、母性をより強く打ち出し自然性を救ってゆくためには、父権的・超自然的信仰の支配する聖書正典の外の伝承に依拠せねばならなかった。」

さらに教会は巧妙な手段に打って出る。新約聖書外典ヤコブ福音書」に由来する「聖母マリアの死・被昇天・戴冠」──天上のイエスを思慕しつつ死の床についたマリアが、天使たちによってまずその魂を、次に肉体を天上に引き上げられて復活を果たし、イエスの祝福を受けながら戴冠される。このテーマは、この受難と再生のテーマは、キリスト教のオリジナルではない。それはキリスト教以前の自然神のための秘教や神話としてすでに常にあり、キリスト教の「復活」概念こそが、その影響を受けていたのだ。
再生復活は、母なる大地の相貌である。夏と冬。生と死。したがって、日照時間が最短の底を打って逆転しだす冬至の日(当時の暦では12月25日)は、自然界が死から再生する日としてゲルマンやその他の異教信仰で大切に祝われてきた。ケルトの信仰では11月1日が新年の再生の日として最重要視され、5月1日も再生のはっきりと現れる節目として重視されてきた。
ローマ教会は、こういった異教の重要な日に狙いをつけた。「聖アンナによる聖母マリアの無原罪懐胎」を5月2日に、そして5月自体を聖母マリアの月として公認──地母神信仰とそれにつながる外典信仰をすっぽりキリスト教内に落とし込み、完全に包摂してしまう。

問題なのはこの教会側のやり方だ。すでに古代ローマの時代に冬至の日は太陽神ミトラの誕生日として人気を得ていたが、ローマ教会は381年にキリスト教化、異教撲滅のためにこの日をイエスの誕生日つまりクリスマスの日に決定したのだった(イエスの正確な誕生日は分っておらず、それまでは旧約聖書の人類創造の日程に合わせて1月6日に設定されていた)。またケルト信仰で大切な11月1日は835年、殉教者を祭る万聖節に変えられた。
教会側は、キリスト教化を進めるとき、いつもこの手をとる。異教の上にぴったりとキリスト教信仰を重ね合わせ、異教の信仰形態を見えなくするのだ(逆に、異教とキリスト教を併存させてしまうと、キリスト教一神教の体制はくずれてしまう)。パリの大聖堂も、シャルトルの大聖堂も、その地所の真下を掘ってゆくと、ケルト信仰の聖所に行きあたる。


『ゴシックとは何か』p.36-37

[関連エントリー]

*1:レオナルド・ダ・ヴィンチ『聖アンナと聖母子』

*2:

吸血鬼と精神分析

吸血鬼と精神分析