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「死せる犬」を否定する あるべき姿の神学を求めて



1959年に新教出版社より初版が刊行された、北森嘉蔵『神学入門』の復刻版を読んでいる。著者である北森嘉蔵はルーテル教会で受洗し、日本基督教団に所属──つまりプロテスタントの牧師である。彼は「神の痛みの神学」を提唱し、1946年に同名著書を発表している。この『神学入門』は、北森の説く「神の痛みの神学」について開催されたセミナーをもとに再構築されたものであるという。
第一章の「神学の意味」で展開される〈思惟〉が、とても興味深く、現在読んでも、とても新鮮で、いろいろと考えさせられた。まとめておきたい。
最初にヘーゲルの言葉「神学は死せる犬である」が引かれる。北森嘉蔵はこのドイツの大哲学者が言うような神学も存在することを認める。しかし、そうではない、「あるべき姿の神学」も存在するはずだ。著者は学としての「あるべき姿の神学」というものの意味を開示していく──正しい把握としての信仰が、なぜ必然的に厳密な把握としての神学(学)にまで展開するのかを。彼は6つの論点を挙げる。
1)神学の第一の契機。つまり、福音の正しい把握としての信仰が、なぜ、福音の厳密な把握としての神学にまで展開せざるを得ないのか。それは「異なる福音」の出現に帰せられる。「異なる福音」はパウロガラテヤ人への手紙で用いている。北森によれば、それは福音の装いはしているが、実体がすでに福音でないものになっているという。であるから、すなわち、「まことの福音」と「異なる福音」を厳密に区別しなければならない──これにより厳密な把握としての神・学が登場するに至る。異なる福音に対して福音を守るために。しかし……

この神学の第一の契機は悲劇的な性格をもっています。なぜなら、神学の必然性が異なる福音の出現という暗黒を媒介としているからであります。もしこの世界に異なる福音というものが一切現れないのなら、以上のような意味での神学の必然性は生じようがないのです。神学が暗黒という否定によって媒介されるという性格が、おわかりになるでしょう。
したがって神学は究極的に言えば、自己が存在しなくなることを念願しながら存在しているのです。異なる神学が一切あらわれなくなって、福音の正しい把握としての信仰だけで十分であるような状態をこそ神学は願うのです。



北森嘉蔵『神学入門』(新教出版社)p.7-8

自己の存在が止むことを願いつつ、その存在を続ける──続けるしかない。神学とは、自己の存在が不必要になるような時代を待ち望みつつ、存在することだ。自己の存在が終末に達することを念願しながら、存在する。このような終末的な性格を神学は有している。だから、神学は、自己目的的ではありえない。自己目的化した神学は、家主または地主の神学である。地主の神学を拒むために、神学の(悲劇的な)性格を自覚しなければならない。


2)「異なる福音」とは「福音」にとっては他者である。それは神学にとって対他的な必然である。しかし神学には福音信仰そのものに即して──つまり福音信仰という自己そのものに即した、即自的な必然もある。
信仰とは「真実」である──ギリシア語のピスティスには信仰と真実を共に意味している。信仰は必ず人間の真心を要求する。真実は必ず責任を呼び起こす。
聖書は──私たちのために文字通り身代わりとなって死んでくださったキリストの遺書にほかならない。「この」キリストへの信仰は真実をよびさまし、真実は責任を生ぜしめ、責任をもって聖書を読むことは、厳密にこれを読む態度となってあらわれる。厳密性は学問性であり……ここにおいて学問としての神学の道へと達する。


3)神学(theology)の学(logy)はロゴスであり、それは「筋道」であるといえる。神学とは、神が私たちの魂にはたらきかけた御業の筋道である。信仰「体験」が起こったならば、必ずその信仰の筋道が認識されるであろう──福音が働きかけたのならば、それはものずごい「力」を伴って起こる事態なのであるから、その体験が起こってすぐには、福音の道筋(ロゴス)は直ちには認識されないかもしれない。しかし、「体験の後」には何かしらの痕跡が残っている。信仰体験という出来事に遭遇したならば、その魂の上に福音の筋道が残っている。この筋道こそが神学である。信仰体験は必ず神学をともなうものなのだ。むしろ「体験」(信仰体験)をともなわない「学」(神学)は、空疎であり、机上で空回りするだけであり、そのような学=神学は何の威力ももたない。


4)信仰体験と神学との関係は、キリスト者の「実存」と教会の「教義」との関係である。体験は一般的・普遍的な形をとらないで、必ず神と自己との対決という個的な形式をとる。ルターも神の前で孤独な戦いを経験した。しかしルターの個人的な信仰体験は、福音主義教会(プロテスタント教会)という一般的・普遍的教会の教義にまで承認された──これは個的なものが普遍化したことを意味する。
実存という言葉”Existenz”は「外」(ex)という接頭語を含んでいる。つまり”Existenz”とは一般的・普遍的なものの「外に」出ている存在だ。そういったことを踏まえれば、キェルケゴールが信仰の実存的な性格を強調して「神の前の単独者」(一般的・普遍的なものから外に出ている「例外者」でなければならない)という考えも頷ける面がある。しかし──そこで体験される信仰が福音に結びつけられている以上、信仰体験が単独者の形であり続けることは許されない。

なぜならキリストの福音とは、神がキリストにおいて他者たる人間と連帯化したもうたという真理だからであります。イエス・キリストとは人となりたもうた神であります。人となりたもうた神とは、他者と連帯化したもうた神です。神にとって人は他者であります。人にとって神は他者であります。神は人にとって絶対他者(totaliter aliter)であります。絶対他者なる神が、絶対他者なる人間と連帯化し、その他者なる人間の立場にまでなりたもうたということが、受肉の真理であります。したがって、この真理に向けられる信仰は、その真理にふさわしくなければなりません。単独者としての信仰は、他者たる隣人とともに生きるという連帯化すなわち普遍化へ出なければなりません。これが、個的実存が教会の交わりの中において生きるということであります。



p.12-13

個的信仰が普遍的教会(Universal church)によって承認されるとき、教義となる。しかし、だ。たとえ「教義」として普遍化した場合においても、神学は必ずその例外的な性格を維持し続けなければならない。「教義」となる前の個的な信仰のことを。「実存」(Existenz)が本来意味するものを。このことを忘却するとき、教会的教義は「死せる正統主義」(dead orthodoxy)に陥ってしまう。それが「死せる犬」ではなくて、いったい、何であろう。
したがって神学が「生きる」ためには、たえず形式的固定化を、その内側から破っていかなければならない。突破しなければならない。ここにおいて、再び、教会的教義と信仰的実存の不可分な関係が呼び戻されるのだ。


5)神学の「学」としての特性──それは、その厳密性の徹底にある。その徹底性は、神学という学の成立可能性にまで向けられる。一般に「学」は、自己がすでに「学として」成立していることを自明としている。それを前提として出発している。その場合、学にとって厳密な反省とは、ただ単に「学のロゴス」が「学の対象」と一致するか否かに向けられるだけである。学のロゴスを駆使するのは、学の主体である。この主体が、その対象を客体内容として考え、主体のロゴスが、その客体内容と一致するように努力するのが、一般的な学の厳密な反省である。
しかし神学の場合、学のロゴスを駆使する主体のありかたそのものに反省が向けられる。向けられなければならない。一般的な「学」の場合には、ロゴスの問題性は「正しいか正しくないか」に限られる。ロゴスが客体内容と一致するか否か──それが正しいか、正しくないかである。学の対象と学のロゴスのずれは、そのような限度において考えられる。

しかるに神学の場合には、学の主体の駆使するロゴスが、学の対象たる神に対して「従順でありうるか否か」ということが反省されるのです。単に正しいか否かではなく従順か否かです。(…)
他の学の場合には、対象が大体において非人格的でありますから、その対象とずれは単に正しいか正しくないかの程度ですまされます。しかし神学においては対象が神という人格的存在でありますから、その対象とのずれは人格的な罪責(guilt)となり、ここに従順・不従順という問題が生じるのです。さらに明確に表現すれば、罪の問題が生じるのです。(…)


神学の場合には「罪」が問題になるのです。もし主体のいとなみが罪であるなら、神学は成立の可能性を否定されます



p.14

神学の反省は「絶対反省」と名づけられる。独断が無反省なのに対して「学」は反省的である。だが、その反省は必ずしも徹底していない。むしろ学の成立可能性そのものを反省せず、これを自明なものとして前提とするのは、反省の不徹底さを意味することになる。

今や神学は単に対象とロゴスのずれだけではなく、ロゴスの成立そのものが問題視されるに至るのです。人間の言葉が神の言に対して従順でありうるか、神学は福音の正しいあかしでありうるか──このようなことを反省するとき、神学の主体は絶望に陥るほかありません。ここに救いと解決があるとするなら、それはもはや、主体自身の力の範囲内ではなく、主体を超えた所に求めるほかありません。それはどこでしょうか。それは今この神学が対象としている福音そのものにほかなりません。福音は、人間の不従順と罪とを救い解決する力であります。
今や福音は対象としての内容から歩み出て、神学の主体そのものを救うのであります。ということは、福音が客体から主体へと変化したことを意味します。福音は神学の主体を救うものとして、かえって神学の主体を救いの対象とするに至るのです。神学の主体は、自己が対象としていると思っていた福音によって救われ支えられて、福音に奉仕するに至るのであります。



p.15

神学が福音を対象とするという面は「前面の思惟」であり、それに対し、福音がかえって主体となって神学を対象として救うという面は「背後の思惟」である。神学は自己の背後を福音によって支えられながら、前面において福音に奉仕する。


6)前述の5)については、神学の内容が神学の形式を解決するということである。神学の成立の可能性という形式問題でさえも、福音の内容そのものが解決する。神学の内容には福音があるのにもかかわらず、神学の成立の反省においては、その内容たる福音を忘れること──形式への固執、それは「律法」のごときを持ってくることに他ならない。神学においては、形式に対する内容の優位を確認しなければならない。神学の主題は、律法の神との出会いから福音の神へとの出会いへの転換にある。

神学入門 (新教新書)

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