村上伸 著『ボンヘッファー』を読んだ。ドイツのルーテル派教会の牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer、1906 - 1945)の生涯とその思想について書かれたものだ。「ボンヘッファーとは何者か」──このプロテスタント牧師の持つ三つの側面を、まず、この本の序文から記しておきたい。
1. 生来の才能と最上の環境に恵まれ、わずか21歳の時に神学博士の学位を取得、24歳でベルリン大学私講師として学界にデビューした天才的神学者。
2. ヒトラーが政権を獲得すると直ちに批判的立場に立ち、「牧師緊急同盟」、ひいては「告白教会」の最も急進的なメンバーの一人として教会的抵抗を行った良心的キリスト者。
3. やがてこのような抵抗が限界に直面すると、国防軍部内の反ヒトラー陰謀の拠点であった情報部(アプヴェア)に身を投じ、暗殺計画に加わったために逮捕され、敗戦のわずか一月前に絞首刑に処せられた。時代の問題にこのような形でかかわった同時代人。
著者は、ディートリッヒ=ボンヘッファー(ボーンヘファー)という人物について「神学者」「キリスト者」「同時代人」というキーワードで追っていく。以下の深刻な問いを常に発しながら。
私はさきにボンヘッファーと並んでコルベ神父、キング牧師、ロメロ大司教の名をあげたが、読者の中には、すぐにある疑問を感じられた方がいるに違いない。というのは、ボンヘッファーと他の三人は、ある点で決定的に違うからである。
ほかの三人は悪に抵抗したが、自ら暴力を用いようとせず、真実な言葉と、自ら進んで苦難を負うという態度によって生き、そして殺された。しかしボンヘッファーは、ヒトラーを暗殺しようとしたのである! これはキリスト教の立場から見て、果たして許されることであろうか。
この問いは、深刻である。
p.20
ボンヘッファーは決して「転向」したのではない。彼は首尾一貫していた。彼は、神学者・キリスト者として、アドルフ・ヒトラーに立ち向かう「同時代人」になったのだ。それは「十字架を負う」こと、すなわちキリストの生き方に注目し、彼の人格と結びつき、彼の生き方に従って生きることなのだ。ボンヘッファーはイエス・キリストに「服従」した──戦うために。「服従は戦いであった」。だから「手を汚す」決断をした──キリストが愛のために敢えて手を汚したように。
「イエス=キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙)
ボンヘッファーは国防軍情報部(Abwehr)というナチス体制の中枢に近いポストを手に入れた。ボンヘッファーの義兄ハンス=フォン=ドナーニー(ドホナーニ)によって任用されたのだ*1。
国防軍情報部の任務は、
- 国境警備にかかわる情報収集
- 敵のスパイ活動の防止
- 国内の情報収集
- 自軍の監視
ドナーニー(Hans von Dohnanyi、1902 - 1945)はヴィルヘルム・カナリス長官の本部付き顧問になっていた。ドナーニーは、政権中枢に近い所で情報を収集しながら、反ヒトラー陰謀の心臓部に入り込んだ。そして自分の周囲に最も信頼できる仲間を次々に呼び集めた──クラウス=ボンヘッファー、エルンスト=フォン=ハルナック、ユストゥス=デルブリュック、そしてディートリッヒ=ボンヘッファーである。
「可能な範囲にある現在のどんな二者択一も一様に耐えがたく、生に逆らい、無意味である」(『十年後』)と感じられる。「善か悪か」というのではなく、悪の中からどれか一つを選らばなければならない。そのためには、かつて自分たちが倫理的判断の基準にしていたものをすべて思い切って捨て、「ただ神との結びつきにおいて」決断しなければならない。そしてそれは、「不可避の罪と自覚しつつおきてに違反する」ことを含むのである。
この判断は、既に1939年にボンヘッファーのものになっていた。それより先、34年に彼は『ユダヤ人問題に直面する教会』という論文の中で、国家がそのあるべき姿から逸脱して人々の権利を奪い、暴虐を働いた時、教会のなすべきことの最後の可能性として「車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるのではなく、車そのものを停める」行動に出ることがあり得る、ということを示唆した。その時はまだ理論であったことが、今や現実の行動として選ばれたのである。
p.73
「車にひかれた犠牲者に包帯をしてやるのではなく、車そのものを停める」。重要なのは、ボンヘッファーという牧師=神学者は、この理論を〈説教〉して回る美しい魂の代弁者として振舞ったのではない。彼は、ナチスの中枢に飛び込み、自ら「手を汚した」のだ。車を停めるために、ヒトラー体制打倒のために。「キリストにならいて」(DE IMITATIONE CHRISTI)。
反ナチ抵抗運動には、むろんさまざまな種類のものがあった。共産主義者や社会主義者によるサボタージュ、宗教上の信条に基づく兵役拒否や軍隊内部における不服従(末世福音派、セヴンスデー・アドヴェンティストなど)、人道的な立場からの知識人・学生による情宣活動(白バラ・グループなど)、ユダヤ人の保護や逃亡援助(告白教会の会員によるものなど)等々である。これらはすべて「下からの抵抗」であって、むろん気高く意味のある行動であったけれども、散発的だったし、とうてい悪そのものを根絶させることはできなかった。ナチスの強大な権力の前には所詮「蟷螂の斧」だったのである。
p.107
「車=体制を停める」ためにはどうすればいいのか。それは体制の頭を打たなければならない。それができるのは「軍」だけだ。軍はヒトラーに接近できる、それに武器を持っている。そもそもドイツ国防軍(Wehrmacht)は、ワイマール共和国の正規軍で旧軍と義勇兵からなる10万の兵力を有していた。ナチス体制になってから整備された他の組織とは格が違う。指導者はエリートたちの集団で、将校たちの多くは貴公子や職業軍人であり、「成り上がりの伍長」=ヒトラーに対して、心理的な反発が醸成されていた──何より、戦争でその惨禍を実際に体験するのは軍人たちなのだから。
ドナーニーやボンヘッファーが企図したのは、「車にひかれた犠牲者に包帯をまいてやるだけでなく、車そのものを停める」ことであった。つまり軍を動かしてクーデターを起こし、新しい民主的な政権を樹立して大戦終結に導く、という方法である。
もちろん、ただ軍を動かすだけで十分と考えたわけではない。同時に連合国にわたりをつけて、新政権樹立の暁には、混乱に乗じて連合国がドイツを食いものにするような事態が生じないように保証を取りつけることが重要であった。そこでボンヘッファーは世界教会関係の太い人脈を通じてとくに英国を相手に交渉することになったが、もう一つ、ヴァチカンを介してイギリス政府に働きかけるという道が模索された。この任に当たったのが、ミュンヒェンの弁護士、ヨーゼフ=ミュラーである。カトリックであった彼は、特別な関係があって教皇庁にある程度自由に出入りできたのであった。
教皇庁は、ドイツにおける抵抗運動が決していい加減なものでないことを保証し、西側も、もしクーデターがヒトラーの西側への侵攻以前になされるならば、という条件をつけた上で抵抗派の希望を容れた。だから計画はかなり具体化されていたのである。
p.107-108
ボンヘッファーは、そのとき、「キリストに目を向けて」いた。「キリストに注目する」こと。それは「十字架に注目する」ことだ。「世界をぬきにして神を、また、神をぬきにして世界を見ることはできない」。キリストこそ「現実」なのだ。
「責任」という言葉は、ドイツ語では、”Verantwortung”であるが、これはもともと、「応答する」(antworten)から来ている。ボンヘッファーが「責任的に」生きることを強調する時、それはキリストの人格と彼の生き方から発する促しに応答することを意味している。
「われわれは、イエス=キリストにおいてわれわれに向けられた神の言葉に対して応答しつつ生きるのである」
p.82
問題は、ただ現実の人間に対する愛である──イエスは、彼ら現実の人間の罪を共有し、彼らの罪の重荷を背負った。法を破った──安息日に病人に対する治療を行ってはならないという掟があることを知りながらそれを破り、らい病人にさわるなという掟があってもそれを無視した。イエスは、愛のために「手を汚す」ことができたのだ。
「人間の歴史的実存の中で責任的に行動する者として、イエスは罪ある者となる」
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*1:ハンスの父は作曲家のエルンスト・フォン・ドホナーニ(ドホナーニ・エルネー、Dohnányi Ernő、1877 - 1960)、息子は指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi、b.1929-)である。