すっかりゲイの新たな必需品ブランドになった、C-IN2 のアンダーウェア。
http://www.c-in2.com/
このセクシーなアンダーウェアの魅力を存分に活写したビデオがYouTubeにあった。写真家スティーヴン・クライン(Steven Klein)*1による、美しく、野蛮で、そして戦慄的なまでのエロースが横溢している映像であった。
C-IN2 Jail Scene Movie
CIN2 TRAILER
背後に流れる音楽は、ヨハン・セバスティアン・バッハの《マタイ受難曲 Matthäus-Passion》BWV244 。抗し難く襲う野蛮な状況のもとでエロースの甘美さを魅せつけてくれる映像に、キリストの受難(パッション)の物語が静かに添えられる。第46曲のコラール「なんと驚くべき刑罰だろう!」(Wie wunderbarlich ist doch diese Strafe!)が。
なんと驚くべき刑罰だろう!
よい羊飼いが羊に代わって苦しみを受けるとは。
正しい御方である主が、負債をつぐなう、
その下僕に代わって。
バッハの受難曲が聴こえてくることによって、僕はこの官能の熱を帯びた映像作品が、「単なる」ファンタジーで終わっていないと感じる。それは時間的に見ても、過去に多くのゲイが特別な罪を負わされ、投獄され、収容所へ送り込まれ、虐殺されてきたからだ。そして空間的に見ても、そのことは今でも世界中のあちこちで起こっている。過去の出来事は、しかし今でも決してそれは過去の出来事ではない。
”いたましい思いを豊かな共感とともに響かせるそのコラールは”……”「十字架につけろ!」の叫びに対する共同体の反応を示すものである。”*3
彼らはイエスの顔に唾を吐きかけ、
彼をこぶしで打った。
ある者たちは顔面を殴りつけて言った。
《マタイ受難曲》第36曲より
スティーブン・クラインによる別ヴァージョンの映像を見ても、センシュアルなファンタジー以上の気配を感じる──感じてしまう。かつて起こり、いまも起こっている、パーティッシュな出来事のことを。それゆえ、この映像作品は、陶酔の出現の諸条件を完璧に備えている。
確かに、お前もあの連中の仲間だ。
言葉が正体を暴露しているじゃないか。
《マタイ受難曲》第38曲より
C-IN2 Steven Klein Shoot
時間的近さと空間的近さとの(したがってまた、此処と今との)本質的一致に基づいて、「Gegenwart(現在)」はかつては「Anwesenheit(居合わせていること)」を意味していたし、或る人について彼は「gegenwärtig(居る)」という場合、今日でも同じ意味で用いられているのである。ところで、観想が一種の現前化 Vergegenwärtigung であり、しかも観想されうる遠さはある不在なるもの ein Abwesends であるとすれば、観想の識別されうる本質的特殊性は「Vergegenwärtigung des Abwesenden (不在なるものの現前化)」として、あるいはもっとはっきりと「Vergegewärtigung des Gewesenen (在ったものの現前化)」として特徴づけられる。
そしてこれによってわれわれは、今日の平均的意識からは完全に滑り落ちてしまったが、かつては地球全体に広まっていた死者崇拝を理解するための鍵を手にするのである。死者崇拝においてはじめて、観想の状態についてのわれわれの梗概が彩も豊かに実現され、遠さを直視しながら深められているのが見出せる。
ルードヴィッヒ・クラーゲス『宇宙生成的エロース』(田島正行 訳、うぶすな書院) p.125-126 *4
マタイ受難曲 Matthäus-Passion.wmv
[関連エントリー]
*1:http://www.stevenkleinstudio.com/
*2:礒山雅 訳、ショルティ指揮&シカゴ交響楽団によるCDブックレットより
*3:礒山雅『マタイ受難曲』(東京書籍)より。
*4: