G.K.チェスタトンの『正統とは何か』の序文「本書以外のあらゆる物のための弁明」で、チェスタトンは、「ロマンス」についてこう述べている──「未知なるものと既知なるものと、その両方を同時に必要とするという要求である」と。
この「両方を同時に必要とする」ということが『正統とは何か』のあちこちで述べられている。それこそがキリスト教の核心なのだ、と(弁明している)。さらに、
教会は、根本の教義を定めることで、一見矛盾する二つのことを両立させたばかりではない。もっと大事なことがある。その二つを、いわば整然たる激越さにおいて爆発させることができたのだ。その激しさたるや、アナーキストにしかできぬ激しさだった。しかもその激しさには、アナーキストにはない整然たる秩序があった。
そんなチェスタトンについてスラヴォイ・ジジェクは「正統の戦慄に満ちたロマンス」と呼んでいるが──レーニンよろしく、「正統ほど危険で興奮に満ちたものは、いまだかつて存在しない」(『操り人形と小人』)──、僕がチェスタトンの著書を読んで、とりわけ「これこそ戦慄に満ちたロマンスだな」と感じたところをメモしておきたい。
歴史上、教会が独身生活の意義と家庭生活の意義を同時に二つながら強調したことは、世俗主義者の言うとおりたしかに事実かもしれない。(こんな言い方が許されるなら)子供を持つことを猛然と支持すると同時に、子供を持たぬことをも猛然と支持したのである。しかもこの二つを、二つの強烈な色彩を並べるように、二つ並べて二つながら強調したのだ。たとえば、聖ジョージの盾に描かれた、あの強烈な赤と強烈な白のように。ただ、二つを混ぜてピンクにすることだけは決して我慢しなかった。まさしく健康の証である。二つを合わせて一つの曖昧な色にするのは、哲学者の生気のない便法にしかすぎぬ。キリスト教はこれを憎む。黒が白に進化して、結局きたならしい灰色に濁ってしまうことをキリスト教は憎むのだ。実際、キリスト教でいう純潔の観念は、純粋の色として白を一個の色と見るところに端的に象徴されている。白とは単に色がないのではない。独立した純粋な「色」なのである。
私が今ここで主張しようとしていることは、結局ただこう言えば十分言いつくすことになるかもしれぬ。つまり、キリスト教はこういう場合に、二つの色を同時に存在させながら、しかもそれぞれを純粋な色として守り抜こうとしてきたのだ、と。色が交わるにしても、トビ色や紫のような混合色ではなく、むしろ玉虫色の絹なのだ。というのも玉虫織は、単に色を混ぜたというのではない。どの角度から見てもそれぞれ独自の色を示すからである。しかもその模様は、無数の十字の組み合わせをなしているからだ。
『正統とは何か』 p.173-174
愛は人格を求める。当然愛は分裂を求めるのだ。キリスト教は本能的に、神が宇宙を小さな断片に分割したことを喜ぶ。なぜならそれは生きた断片だからである。
(中略)
キリスト教と仏教とを分かつ哲学的な深淵がまさにここにある。仏教徒や神智論者にとっては、人間の人格とは人間の堕落にほかならぬのに対して、キリスト教にとってはそれこそが神の目的であり、神の宇宙創造の眼目そのものにほかならない。神智論者の言う宇宙の霊は、人間がこの宇宙の霊を愛することを求めるが、その目的たるや、要するに人間がその霊の中に自己を投入させることにあるだけだ。
ところがキリスト教の中心たる神は、人間をその中心から外へ投げ出したけれども、その目的はただ、人間がその中心を愛することにある。東洋の神は、いわば脚か手を失くして、いつも探しまわっている巨人のごときものであるのにたいして、キリスト教の神は、人知を絶した気前のよさでみずからの右手を切り放ち、その右手が自分の意思によってみずからと握手することを待っている巨人だとも言えようか。
ここでわれわれはまたしても、キリスト教の本質にまつわるあの倦むことのない性格を発見する。現代の哲学はすべて、人を縛り、手かせ足かせをはめる鎖である。だがキリスト教は剣であって、束縛を断ち切り、解き放つ。宇宙を自己から切り放ち、生きた魂とすることを真に喜ぶ神の観念はキリスト教以外に抱きうるものではない。正統のキリスト教に従えば、この神と人間との分離は聖なるものである。なぜならそれは永遠の分離であるからだ。
人間が神を愛しうるためには、人間の愛すべき神が必要であるばかりではなく、神を愛する人間の存在もまた不可欠である。
宇宙は巨大な坩堝であり、あらゆる物がそこで溶解し融合すると観ずる漠然たる汎神論者は、福音書に説かれたあの驚天動地の言葉から本能的にたじろいで身を引くにちがいない──つまり、神の子が地上に来給うたのは、単に平和をもたらさんがためばかりではなく、人と人とを引き裂かんためだというあの言葉だ(マタイ伝10・34)。この言葉は、その文字どおりの意味においてもまったく真理の響きを放っている。真の愛を説く者は、必ずや憎しみを生まずにはおかぬという意味である。このことは神の愛については言うまでもなく、民主的な結社についてさえ同様に当てはまることだ。見せかけの生半可な愛なら妥協と陳腐な哲学に終わりもしようが、真の愛はいつでも流血に終わるのが古来変わらぬ事実であった。
だが、主のこの御言葉には、この文字通り誰の目にも明らかな意味を超えて、もう一つ、さらに恐るべき真実が秘められている。主の語り給うところによれば、神の子は剣として兄と弟とを切り裂き、彼らは永遠に憎み合うことになるという。けれどもさらに、父なる神ご自身もまた剣なのだ。この剣は暗黒の始源において兄と弟を切り裂かれた。そのためにこそ、兄と弟はついに真実に愛しあうことが可能となったのである。
『正統とは何か』 p.240-241
- 作者: G.K.チェスタトン,Gilbert Keith Chesterton,安西徹雄
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