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「ファシスト国家」の「赤色首都マドリッド」




木下和寛『メディアは戦争にどうかかわってきたか  日露戦争から対テロ戦争まで』(朝日新聞社)に、スペイン内戦における「メディアの役割」が、興味深く描かれている。著者の木下氏は朝日新聞社の記者である。


アーネスト・ヘミングウェイジョージ・オーウェルアンドレ・マルロー、アーサー・ケストラー、スティーブン・スペンダーらの世界的な作家や記者らによって、 人民戦線側に世界の同情が集まってくる。『ライフ』誌に掲載されたロバート・キャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」やピカソの「ゲルニカ」は、人民戦線=善、フランコ側=悪のイメージを決定付けた。

しかし著者は、この善・悪の構図に疑いを示す。
とくにケストラーは、コミンテルン共産主義インターナショナル)の活動のためにスペインに入国した人物。彼が報道し反響を呼び起こした「フランコ軍の残虐行為」は、疑わしいストーリーがいくつもあるという。

ゲルニカ事件も、研究が進むにつれ、当時と見方が異なってきている。当時は、一般市民やバスク民族を狙った計画的虐殺だという論調が主流を占め、世界に憤激を巻き起こした。だが、その後の研究では、バスク部隊が再編成するのを阻止しようとした軍事作戦であり、とくに虐殺や民族抹殺を狙ったものではなかったという説が有力になっている。ナイトリーは「すなわち、ゲルニカ(の計画的残虐)が特派員たちによって作られたものだということは明らかである」と書いている。
人民戦線でも虐殺が行われたことを証言する記録は多い。内戦の最初の三ヶ月間に、人民戦線側域内の町や村で多くの司教や司祭、尼僧を含む約六万人が殺されたと言われる。




p.53-54

にもかかわらず、「悪逆非道なのはフランコ軍」という「イメージ」が──報道の積み重ねによって──定着する。

1939年にフランコ将軍は戦闘終了宣言を出し、内戦を終結させ、独裁を開始した。ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニの援助を受けた「フランコのスペイン」を、英米仏などの「民主主義国家」の指導者たちは「ファシスト国家」と看做した。
とくに反共を国是としたスペインに対し、ソ連は烈しく非難し続ける。第二次世界大戦末期の米英ソの三国によるポツダム宣言では「反スペイン声明」が盛り込まれ、戦後1946年の国際連合総会でも「スペイン排斥決議」が採択された。スペインは国際社会から孤立した。

しかし、と木下氏は続ける。フランコは日独伊三国枢軸に加わらなかった──ヒトラーの執拗な勧誘にも抗して。代わりに、志願兵からなる義勇軍「青の師団」を編成し、対ソ戦線に送った。「青の師団」派遣は、同盟を迫るヒトラーの要求をかわすための「代償」であったのではないか、と著者は考えている。

人民戦線政府当時は”自由で民主的”であったが、無秩序で共産主義者無政府主義者などが相争い、平和と安定はなかった。フランコ言論統制をし弾圧を行ったが、流血が日常茶飯事でない状況をもたらした。内戦から解放されてフランコ支配を歓迎した国民も多かったのである。活発な反フランコ運動が起こってくるのは二十年以上を経た一九六〇年代、スペインが経済的にも国際的な地位でも大きく状況を改善してからである。




p.55

フランコは、東西冷戦という状況の変化をつかんでアメリカとの関係を改善し、国連の排斥決議解除を成功させた。58年にはOECD経済協力開発機構)の前身OEEC(欧州経済開発機構)をはじめ次々と国際機構への加盟を果たした。アメリカの援助をテコに「スペインの奇跡」と言われる経済成長を達成した。
そしてフランコの死後、ブルボン家のファン・カルロス王子を迎え、スペインは立憲君主制の民主主義国家へと移行した。

こうしてみると、ポツダムでの「反スペイン声明」や国連での排斥決議は何だったのか。
一つには、最初はドイツと組んでポーランドを侵略するなどしながら、状況の変化で連合国の有力な一員におさまり、国連常任理事国のメンバーともなったソ連の圧力が大きかった。フランコにとってソ連共産主義は仇敵であったように、ソ連にとってもフランコは内戦時代以来の敵だ。「ドイツ、イタリアが倒れた後も残るファシスト政権」と非難を続けた。




p,56

これら「スペイン攻撃」が米国や英国、フランスなどに受け入れられたのは、前述の著名作家らによる「報道のイメージ」が影響したのは間違いない、と現役の朝日新聞記者は記す。
アメリカによる欧州復興援助計画(マーシャルプラン)がスペインに適用されたのは、他の欧州諸国の援助が終了してから二年後のこと。

世界のメディアに好意的な報道をしてもらうことに失敗したフランコ・スペインは、再生・発展を四年から五年遅らせることになったのである。




p.56