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国家とは「軍事的捕食者」である 見えるものと見えないもの



森村進『自由はどこまで可能か』でも強調してあったように、「課税」という私有財産権への侵害は、もっと深刻に「問題化」されるべきであるし、「権力分析」における最重要課題でもあるだろう。
問題は、なぜ、「私有財産権」が、「言論の自由」や「思想・信条の自由」と同レベルで語られないのかである。
最小国家を運営するための財源確保を課税に頼らなければならない場合、要請される税の形態は、何の例外も控除もない一定率の所得税もしくは消費税であろう(累進課税は、不平等、不公正、財産権の侵害である)。


萱野稔人の『国家とはなにか』にも、租税と国家の関係について考察されている部分がある。それによると、住民から租税というかたちで富を奪い、その富を暴力の組織化と蓄積のためにもちいることが国家の原型であるということだ。

税の徴収がまずあって、それが暴力の優位性を生じさせると考えることはできない。暴力の格差が税の徴収に先立つのである。したがって、もし住民のなかに税を払うことに対する合意のようなものを探すとするならば、それは「国家の暴力にさらされるぐらいなら税をおとなしく支払ったほうがいい」という意味での「同意」でしかない。
(中略)
こうした特徴から、ポール・ヴィリリオは、国家を「軍事的捕食者」と規定している。国家が出現するのは、富を生産するエージェントとしてではない。他の住民が生産した富を暴力によって掠奪するエージェントとしてである。住民の生産活動に軍事的に寄生するというのが、国家の存在様態をくみたてるのだ。


萱野稔人『国家とはなにか』p.102

国家は、富を一方的に収奪することを根拠づけるような暴力のレジームである。国家の暴力性は、税の徴収と相互関係にある。
だから「反国家運動」の最も効果的な「戦略」は、税金の不払いにある。とくに「一般の個人」よりも、年間収益の約半分を徴収される企業の税金(法人税)に注目すべきだろう。したがって反国家主義者は、法人税の削減・撤廃を唱えるべきだ。


それと、国家を「問題化」するにあたっては、「国民という制度」にも「先鋭な意識」を持っていたい。

政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。リバタニアンの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは不当な介入である。国民的あるいは民族的なアイデンティティなるものが各個人にとってどのくらい大切か、社会にとってどのくらい有益かは一つの問題だが、ともかくその確立は政府の任務ではない。


森村進『自由はどこまで可能か』p.131-132

森村進は、さらに、「国民という制度」を成り立たせている「共犯関係」の具体例を「反ナショナリスト」の言説にみる。

ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦後世代が戦争責任の引き受けることを主張するというねじれが見られる。しかしそれは日本人すべてに、戦前戦中戦後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。国が何らかの責任を負うからといって、国民が人格的な責任を負うということにはならない。


森村進『自由はどこまで可能か』p.132

リバタリアンにとっては、国民主権ではなく、住民主権である。したがってリバタリアニズムの立場からすれば、定住外国人にも参政権を認めるのは当然である。国籍によって区別せず、政府/自治体に税金を支払っている人に参政権を与えるべきでなのである。一方、外国に定住している「日本人」はその国の参政権を与えられるべきだが、外国に住んでいる以上、日本人だからといって──日本国籍を有しているからといって──日本の参政権を与える必要はない。

またハイエクように、公務員や政府年金受給者や失業者といった公金を受け取っている人々に対して選挙権を与えるべきではないと主張している人物もいる。公金の受給者が、公金の使い方についての決定に、一般人=納税者と同様に参加するのは不合理であるというのがその理由だ。

経済学の知見を利用するリバタリアニズムはこのようにして、自由市場を持つ社会が国家による介入なしに、いかにして機能するかについて現実味ある説明を与えている。この点でリバタリアニズムは、利己心を持たない人々からなる、牧歌的なユートピアを想定するだけだった社会主義アナーキズムよりもすぐれている。後者の伝統的なアナーキストは連帯で結ばれた人々の集団だけで社会がうまくいくと考えているわけだが、これは市場経済の持つ意義を軽視し、人間性について非現実な想定をしている。それに対してリバタリアンは、利己心と無知(言い換えれば、制限された利他性と知識)を免れない人間性からし市場経済は発展した人間社会に不可欠の制度だと考える。


森村進『自由はどこまで可能か』p.115-116

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)


柄谷行人の『国家とはなにか』書評
http://book.asahi.com/review/TKY200508090163.html

国家は階級支配の道具ではなくて、それ自体支配階級である。だから、国家は経済的な階級対立がなくなれば死滅するという見方(エンゲルスレーニン)は、甘い。国家は資本主義経済の中で変形されるが、自律的なものとして存続する。「社会主義」体制においては、死滅するどころか、なおさら強固に存在するのだ。


[本]のメルマガvol.217の「国家と暴力の密接な関係をあばく」/ 萱野稔人+前瀬宗祐より
http://blog.mag2.com/m/log/0000013315/106137878?page=1

萱野:とはいえ、こう言ったからといって、非暴力の実践がこれで無意味になるということではありません。その逆です。非暴力の実践は、みずからの実践をつうじて暴力のコントロール可能性そのものを高めるような指向性をもっています。非暴力的な空間が広がっていくとすれば、それは、こうした暴力のコントロール可能性の上昇によってでしかありません。この意味で、ぼくはたんなる理論をこえた実践の可能性を肯定しています。なんらかの実践を理論のレベルで批判することで、高みに立とうとするような、エリート主義的な発想はきっぱりと捨てられるべきです。

それと、青山ブックセンター本店に行ったら、萱野稔人酒井隆史のちょっとしたフェアーをやっていて関連書などが揃っていた。