僕はコーヒー党なのだが、昨日デパートで買ってきたハーブティー(ローズヒップブレンド)を飲んでみた。パッケージに書いてあったのだが、なんでも野イバラはドイツでは「ビタミンCの爆弾」という物騒な「あだ名」を持っているそうだ──つまり身体に良い爆弾、というわけか。
デリダの『法の力』を流し読み。
暴力は法/権利を含意し、法/権利は暴力を含意するという、今述べたような相互=含意の関係を考えることのできるさまざまな理論的ないしは哲学的手段を自分自身に与えない限り、おきまりの暴力批判の数々はいつまでたっても素朴かつ一貫性を欠いたままである。ベンヤミンは、平和主義的行動主義の熱弁に対する軽蔑の気持や、個人が強制を一切受けることのないようにしたいと願う「幼稚なアナーキズム」の宣言に対する軽蔑の気持を隠そうともしない。
定言命法(「きみの人格についてもまったくの他者の人格についても、きみがそのなかの人間性を常に目的として用い、決して手段として用いることのないような仕方で行為せよ」)を引き合いに出すことに異論はないとしても、それによって暴力に対する批判が可能になるわけではない。
法/権利は、ほかならぬ暴力のすがたをとってもなお、次のように主張するのだ──自分はその当の目的としての人間性を、一人一人の個人の人格のなかに認め、それを守っているのだ、と。したがって、暴力に対する道徳的でしかない批判は、無力であると同時に、正当なものにはならないであろう。
これと同じ理由により、自由を名目にして暴力に対する批判を展開することは不可能である。この自由に対してベンヤミンは、ここで「形の定かでない<自由>」(gestaltose "Freiheit")という名を与える。すなわちそれは、要するに、純粋に形式的な一個の自由、中身のない一個の形式ということである。この名づけ方は、ヘーゲル=マルクス主義的な思想的系譜にそったものである。このようなベンヤミンの省察の過程全体とこの系譜とは無縁であると考えるならば、それは大きな間違いである。暴力に対するこれらの非難攻撃は、的確性と実行力に欠ける。なぜかというと、それらは法的という暴力の本質、すなわち「法/権利の秩序」に疎いままであるからだ。実効的な批判をなそうとすれば、法/権利そのものの身体を、その頭や手足を責めさいなむものでなければならない。すなわちそれは、法/権利がその威力(Macht)を用いて保護せんとするさまざまな掟や個々の慣行を責めさいなむということである。
ジャック・デリダ『法の力 (叢書・ウニベルシタス)』(堅田研一 訳、法政大学出版局) p.126-127