HODGE'S PARROT

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左翼の反ユダヤ主義と「ラディカル」の囮




ウイスキーに限る──ビールもワインも飲めるけど、やっぱり僕が好きなのは、スコッチ、バーボン、アイリッシュ、カナディアン、そして国産ウィスキーだ。ただここのところ飲みすぎの気配。先日買ったばかりの『TEACHER'S』がもう底がつきそうだ。


スラヴォイ・ジジェクの二つの論文を読む。アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『帝国』『マルチチュード』を批判しているものだ。全体がどうの、というよりも挿話的な部分に興味を惹いた。

「反-ユダヤ主義批判にいたしますか、シオニスト批判にいたしますか? はい、どうぞ!」は、相互に排斥し合うどころか、秘められたリンクによって連み合っているのだ。現代左翼が吐く多くの言説には、例えば「ユダヤ人はいま、以前ユダヤ人に対して行われたことを他者に対して行っており、したがって、もはやユダヤ人はホロコーストについて不満を垂れる権利などないのだ!」といった言わず語らずの理由づけを以て、国家としてのイスラエルが占領地で行っていることをナチのホロコーストと直接的に同一視するといった、まさに反-ユダヤ主義に他ならない立場が存在している。
また、普遍的な「融合」といった能書きを垂れるユダヤ人自身がそれ以上に強く自分自身の民族的アイデンティティにこだわるといったパラドクスが厳然として存在してもいる。




『非-全体』(長原豊 訳、『現代思想』2005年11月号)

今日のアメリカのラディカルなアカデミーの二つの有力なトピック、ポストコロニアルとクイアー・スタディーを取り上げてみよう。ポストコロニアリズムの問題は疑いもなく決定的だ。しかしながら、「ポストコロニアルスタディー」は、この問題を、植民地化されたマイノリティーが「他者」を抑圧する権力メカニズムの犠牲になってしまう経験を「語る権利」という、多文化主義的なプロブレマティックへと翻訳する傾向がある。結局のところ、我々が学ぶのは、ポストコロニアルな搾取の根が大文字の他者にたいする我々の不寛容にあるということ、そしてさらに、この不寛容それ自体が「我々自身の中の異邦人」に対する我々の不寛容に、我々自身においてかつ我々自身によって抑圧されたものに直面する際の我々の無能力に根ざしているということである。こうして政治経済的闘争がいつの間にか自身の内なるトラウマに直面することができない主体の擬似精神分析的ドラマへと転換されてしまう。



アメリカのアカデミーの真の腐敗は第一には財政的なものではなく──このことは彼らが何人ものヨーロッパの批判的知識人(ある点までは、私自身も含まれる)を買い取ることができるのにはとどまらない──概念的なものだ。つまり「ヨーロッパ」の批判理論という概念がいつの間にかカルチュラル・スタディーのシックという温和な世界へと翻訳されてしまうのだ。




『帝国』は二一世紀の『共産党宣言』か?(石岡良治 訳、『現代思想』2003年2月号)

かくして戦われるべき戦闘は二重のものとなる。まず第一に──もちろん──資本主義。しかしながら、資本主義の政治形態(リベラルな議会制民主主義)を問題化することのない反資本主義は、それがいかに「ラディカル」であろうとも、不十分である。おそらく今日の囮なるものは(ある左翼が主張するように)たとえ資本主義に参加していようとも、自律性を得ておりかつ資本主義を批判するのに役立つことができるような、リベラルな民主主義の遺産を問題化することなしに資本主義を掘り崩すことができるという信念である。


この囮は、見かけ上は反対物であるような、擬似ドゥルーズ主義的な、資本に関する愛憎、かつ魅惑的/魅惑されているような詩的な描写と厳密に相関的である。そこでは資本は全てを脱領土化させて飲み込むリゾーム的なモンスター/ヴァンパイアである──不屈でダイナミックであり、常に死から立ち上がり、各々の危機からより強力に、ディオニュソスかつ不死鳥のような再生を遂げるのだ。


まさにマルクスに対するこうした詩的で(反)資本主義的な参照においてこそマルクスは真に死んでいる。彼の政治的棘が奪われつつ我有化されてしまっているのだ。




『帝国』は二一世紀の『共産党宣言』か?