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讃美歌は歌えない 〜 映画『青春の輝き』


映画の冒頭、ブレンダン・フレイザー演じるデヴィッド・グリーンは埃っぽい寂れた町のカフェで、仲間たちから仲間たち同士ならではの荒っぽい祝福を受けている。荒っぽい連中であるがゆえに表には出さないが、それでも感傷的な別れのニュアンスがそれぞれの顔に表れている。デヴィッドはアメリカン・フットボール奨学金を得て、通常ならば労働者階級である彼の(彼らの)家庭からは「予めの排除」によって進学することが叶わなかった名門校、聖マシューズ校に編入することになったのだ。仲間たちとは(そしてかつてそうであった過去の自分とは)違った人生を歩むことがデヴィッドには約束されていた。そして、そのことに、彼はまだ気持ちの整理がついていない。
そこへオートバイの集団がやってきて、デヴィッドたちがいるカフェに無理やり入ってこうようとする。「入るのはやめとけ」という店内の声に続いてオートバイの男がデヴィッドに顔を向けて言う「ユダヤ人はいいのか? キリストを殺した連中だぜ」。

ロバート・マンデル監督による『青春の輝き』(School Ties, 1992)は、邦題が呼び起こすイメージと少しばかり異なり、1950年代のアメリカ・ニューイングランドのプレップ・スクールを舞台に、ユダヤ人差別、あるいは反ユダヤ主義とはどういうものであるのかを描き出す。「こういうときに」それが差別になっていることを的確に指摘する。それが「的確である」のは、その描き方が、ユダヤ人差別だけではなく、他の差別についても「こういうときに」それが差別になっていることを的確に示唆するからだ。その非寛容が辿る経過は、ちょうどその100年前に書かれたナサニエル・ホーソーンの小説『緋文字』を思い出す。
School Ties - Trailer


デヴィッドが全寮制の男子校、聖マシューズ校に足を踏み入れたとき最初に思ったのは「これが学校なのか?」という戸惑いだった。礼拝堂のある瀟洒な建物と緑豊かな敷地。そこは上流階級の人たちのための学校だった。それでもデヴィッドはその中に溶け込もうとする。ルームメートやクラスメートと上手くやっていこうと努力する。彼は家族やコミュニティの希望を背負っているのだから。だから、デヴィッドは、自分が「ユダヤ人であること」を隠す。身に着けていたダビデの星のネックレスを外し、ユダヤ人であるそのしるしを箱の中に隠す。自分に「嘘をつく」ことによってトラブルを回避させる──それが10代の若者がこれまでの経験から学んだ処世術であった。
その「努力」によって、デヴィッドは、ルームメートのクリス・オドネル演じるクリス・リースをはじめ、クラスメートの連中と上手くやっていく自信はついた。仲間として認められたかもしれない、少なくとも除け者にされてはいない。ただ、その仲間同士の何気ない会話の中にユダヤ人を馬鹿にしたジョークが自然と言い放たれるのを黙って聞くしかない。ときには、デヴィッドの前で、こう言い放つ者もいる──「ユダヤ人はいてもいい、自分のルームメートでなければ」。そう言ってデヴィッドに同意を求める。デヴィッドは言う「ユダヤ人とそうでない人の見分けはつくのか?」。答えは「一目で見分けはつく」だった。
この場面はシャワー室での出来事になっている。主役のデヴィッドをはじめ他の主要登場人物たちもほとんど全員裸になっている。裸で正直に何も隠さず本音を語るクラスメートたちは、同じく裸でいるユダヤ人男性であるデヴィッドを前にしても、彼がユダヤ人であること(ユダヤ人であるかもしれないこと)をまったく想定していない。ユダヤ人がこの学校にいるわけがない、と思っている。シャワー室はもう一度重要な場面で登場する。
ユダヤ人であること」は(当時の)アメリカ社会においてどういうことであるのか、それをデヴィッドが思い知らされるのは、クラスメートらの陰に陽に匂わせるユダヤ人に対する反感だけではない。聖マシューズ校は、その名前からわかるようにキリスト教の学校で(ちなみにライバルは聖ルーク校)、週に3度の礼拝が義務付けられている。全校生、全教員が一つになって讃美歌を歌うなかで、ただ一人、キリストを讃える歌を歌えない自分がいる。讃美歌の響きの中で彼は孤立する。讃美歌が歌えないことによって自分が何者かであることを思い知らされる。一方、ユダヤ教聖日である新年祭はアメフトの試合の日だった。デヴィッドは試合を優先した。代わりに彼は、深夜、十字架のある礼拝堂の中で、キッパを被り、家族とコミュニティを結びつけているユダヤ教の祈りをたった一人で捧げる。
そんなデヴィッドであったが、「ユダヤ人であること」を隠すことによって、クラスメートと「より上手く」やっていく──「より上手く」やっていく方法を手さぐりで見つけていく。イヤミなフランス語教師(これは全世界共通で笑った、しかもルックスがエマニュエル・マクロンに似ている)に対する仕返しは、クラスメートたちとの仲間意識を強めることになる。何より、デヴィッドはアメフトの試合で聖マシューズ校を勝利に導き、学校のヒーローになっていく。系列の女子校に通うサリー・ウィーラーと知り合い、彼女と特別な関係になる。しかし自分が「ユダヤ人であること」は黙っていた。
ユダヤ人であること」を隠すことによってデヴィッドは擬似的な「青春の輝き」を手に入れる。新しい友人たち、美しい異性の恋人、優秀なアメフト選手としての有名大学への進学。しかしそれらは所詮、擬似的なものでしかなかった。
ここでチャーリー・ディロン役のマット・デイモンが後の『リプリー』を思わす──ただしトム・リプリーと比べると格段にせこい──悪の輝きを見事に演じる。もともとデヴィッドのアメフトでのポジションはチャーリーのものだった。それを「金で買われた」デヴィッドが奪った。もともとサリーはチャーリーのガールフレンドだった、とチャーリーは思っていた。そしてチャーリーは反ユダヤ主義者であることを隠さない。ふとしたきっかけでデヴィッドがユダヤ人だと知ったチャーリーは、それを暴露(アウティング)する──チャーリーは間違った三段論法を使用する「嘘つきのユダヤ人」「嘘なら否定しろ」「(だから)こいつは(嘘つきの)ユダヤ人だ」。
主要登場人物が裸になって、まるで隠すべきものは何もないかのように振る舞っているシャワー室の中で、デヴィッドの秘密は暴かれた。デヴィッドは他の誰よりも裸の自分を晒された。これ以降、デヴィッドは、いつどこにいても裸の自分の姿が他人に晒され、見てはいけないものを見るかのような視線に晒される。

「俺はユダヤ人だ」デヴィッドは自分に「嘘をつく」ことをやめる。ルームメートのクリスの前で、彼は箱の中に隠しておいたダビデの星のネックレスを取り出し、首にかける。
「なぜ隠していた?」とクリスはそれを見て尋ねる。
「君の宗派は?」とデヴィッドは尋ね返す。
「メソジストだ」
「それは初耳だね」
「それとこれとは違う」
「それとこれとはどう違うのか」
ユダヤ人は違う。ユダヤ人は何もかも違う」
ユダヤ人は汚れているということか。ハッキリ言えよ、ユダヤ人は金の亡者か?」
デヴィッドは、ユダヤ人であることを打ち明けていたらのけ者になっていた、とクリスに言う。ユダヤ人というだけで、台無しにしたくなかった、と。
別の日に部屋にもどると、デヴィッドのベッドの上の壁にハーケンクロイツと「ユダヤは帰れ」の文字が大きく描かれた張り紙があった。
ガールフレンドのサリーも「被害者」になっていた。何度電話をしても返事をくれないサリーに対しデヴィッドは彼女の学校へ直接会いにいく。サリーはデヴィッドに対し自分の被った「被害」を訴える。サリーの母親は取り乱し「家名に泥を塗るのか」と彼女に言った。友人たちには「ユダヤ人のキスはどうだった? 鼻は邪魔だった?」と馬鹿にされた、と。「いい友人だ」とデヴィッドは言う。それに対しサリーは言う「でも彼らは正直で嘘はつかない、あなたは一番重要なことを黙っていた。ユダヤ人であることを隠したのはあなたが初めて」。
そして事件が起こる。聖マシューズ校の規範である「名誉の掟」の署名をした歴史のテストでチャーリーは不正行為(カンニング)をする。それをデヴィッドと ランダル・バティンコフ演じるリップ・ヴァン・ケルトが目撃していた。チャーリーのカンニング・ペーパーは教師に見つかり、クラスの中の誰かが不正行為を行った事実が明らかになった。学校側は、「名誉の掟」に従って、クラス全員の連帯責任とした。すなわち不正行為を行った犯人が出頭しなければ、全員を不合格にする、と。それはクラスの全員が大学への進学を諦めることを意味する。そしてすべてはクラスのメンバーによる自主的判断に任されていた──犯人が自主的に名乗りでるか、クラスのメンバーが犯人を見つけ出頭させるか、あるいはクラス全員が落第するか。チャーリーはデヴィッドを陥れるため、デヴィッドがカンニングをした犯人だと主張する。なぜならば、彼はユダヤ人であることを隠し、「嘘をついていた」のだから、と。デヴィッドは見たことをありのままに述べる。チャーリーがカンニングをした、と。リップ・ヴァン・ケルトは沈黙している。「容疑者」は二人に絞られた。チャーリーかデヴィッドか。二人に一人。クラスのメンバーはどちらが犯人であるかを自分たちで判断を下さなければならない。裁判のようなものが催される。
「犯人はユダヤ人だ。我々の社会にもぐり込もうとする汚い奴らだ」
「それは偏見だ。ユダヤ人であることは関係ない」
「関係あるさ、奴はユダヤ人だ」
「差別はよせ、偏見で物を言うな」
「汚いユダヤ人の味方をするのか?」
「自分もユダヤ人の悪口を言っていた。だが今まで彼らと付き合ったことはなかった。彼はいい奴だ。不正行為など……」
「犯人はこすいユダヤ人だ」
「それほどユダヤ人を知っているのか?」
「チャーリーのポジションとガールフレンドを奪った」「無料で学校に入学した」
「君らは人種差別をしている。彼が身分を隠したのも当然だ!」

この学生たちの「擬似裁判」は、確固たる証拠に基づいているものではない。ユダヤ人だから「そういうこと」をする。ユダヤ人なら「そういうこと」をしかねない。ユダヤ人のすることには「すべて」何か裏がある。そこには何か「邪悪な意図」がある。「邪悪な意図」があるがゆえにそれを覆い隠し、それを糊塗するのである。ユダヤ人だから「そういうこと」をする。ユダヤ人なら「そういうこと」をしかねない。ユダヤ人のすることは「すべて」何かを覆い隠し、何か「邪悪な意図」を宿しているがために、そうやって糊塗するのである。ユダヤ人だから「そういうこと」をする。ユダヤ人なら「そういうこと」をしかねない。ユダヤ人が「邪悪な意図」を持っていないわけがない。なぜなら、何かを覆い隠し、何かを糊塗するのは「邪悪な意図」がある証拠だ。ユダヤ人だから「そういうこと」をする。ユダヤ人なら「そういうこと」をしかねない。
こういった「擬似裁判」は、今でも、行われているだろう。おそらく、ここ日本でも。そうやってユダヤ人に対しては誰でも「断罪する側」に回ることができる──「裁く側」に就きたいからこそ、「判事の側」に就きたい者がいるからこそ、「疑似裁判」が開かれるのだ、相手に弁明を与えることすらなしに。それで何か善い事をした気になれる。いい気なものだ。「それほどユダヤ人を知っているのか?」
クリス・リースの反対を押し切り、クラスのメンバーは無記名投票でチャーリーかデヴィッドのどちらが犯人であるかの評決を行う。結果は、デヴィッドが有罪だった。

「このしるしをお取り上げになる権利は判事さまとやらにはございません」ヘスターは静かに答えた。「わたしが緋文字を身につけなくてもよい事態になれば、あれは勝手にはがれ落ちるか、別の意味を伝える何かに変化しているはずです」


ホーソーン『緋文字』(八木敏雄 訳、岩波文庫)p.242*1


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