アメリカのピアニスト、フレデリック・チュウ(Frederic Chiu)の弾くプロコフィエフの『悪魔的暗示』の映像が YouTube にあった。ピアニスト本人が投稿したようだ。
Frederic Chiu Prokofiev Diabolic Suggestions DPS
凄いの一言だ。強烈なリズムとスピード感、パワフルな打鍵、痙攣、そしてショッキングなグリッサンド。素晴らしい。
もう一曲。J.S.バッハの『マタイ受難曲』から「憐れみたまえ、わが神よ」のピアノ編曲版。この演奏も感動させてくれる。『マタイ受難曲』はバッハの作品の中で一番好きだ。
Frederic Chiu Bach-Chiu Erbarme Dich from St Matthew Passion
この中国系アメリカ人によるバッハの演奏を聴いて、吉田秀和の次の言葉を思い出した。
「バッハはその音楽の論理をどこで見つけたのか?」バッハの前にも音楽はあった。それは、私がいうまでもない。だが、その音楽が私にわかるのも、実はバッハをきいているからである。バッハによって、音楽をきいていると、バッハ以前の人たちがどうちがうか、どうちがっていてもやっぱり楽しいかが、きこえてくるのである。ということは、バッハのなかにある「音楽の論理」は彼の発見、独創ではない。彼が前の時代の音楽のなかにみつけたものだということになる。ただ、彼は、それを一つの究極にまでおしすすめたのである。その結果、それは普遍性をおびるにいたった。
これは、「西洋」の宗教とか、哲学とかのなかにもある、一つの問題につながるものである。西洋哲学だけが哲学ではない。それはそうだ。だが、哲学である以上、それが成立する本質的な条件というものがなければならない。そのことを西洋哲学は、思想として表現するのに成功した。
今、しかし、西洋人もいれて、世界中の人たちは、西洋の絶対性ということにかつてのような信頼をおかなくなった。
音楽についても、そうである。音楽であるうえに、バッハの究極的な形までおしすすめた論理──多声部の楽曲での各声部進行の論理と和声法の展開──を土台としないでもゆかれることを証明しようとする「音楽」が書かれつつある状況に入ってきたようにみえる。人類は、それに成功するかもしれない。
だが、私には、たぶん、そのことさえ、バッハとの違いとつながりとしてでなければ、理解できないだろう。
吉田秀和「J.S.バッハ 『ロ短調ミサ曲』」(『吉田秀和全集〈11〉私の好きな曲』所収、白水社) p.151-152
[Frederic Chiu official website]
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