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「裏切り」のヴァリエーション/「傷つける」形式変奏 Th.W.アドルノを読む2



アドルノの『マーラー 音楽観相学』にベートーヴェンの「ヴァリエーション」(変奏)とマーラーの「ヴァリアンテ」(変形)を対比させた部分がある。ちょっと気になったのでメモしておきたい。

マーラー―音楽観相学 (叢書・ウニベルシタス)

マーラー―音楽観相学 (叢書・ウニベルシタス)


例えばベートーヴェンマーラーの主題の扱いの違い。

ベートーヴェンの主題労作の場合には、主題の動機細胞そのものが、質的には異なる様々な主題複合を連継して生み出すことに結びつけられている。つまりベートーヴェンにあっては主題の大きな構造が技術的な結果としてあるのだが、これに対してマーラーの場合には、音楽のミクロな有機体が、主要なゲシュタルトの明白かつ大規模な輪郭の只中で、ひっきりなしに変化してゆく。


その最たる例が、第三交響曲の第一楽章である。マーラーの主題のあり方は、動機労作よりも主題労作に、よりよく適するようにできている。主題の最小の要素は不明瞭であり、重要でないとまで言える。というのも、主題の全体それ自体が確固とした大枠を持たないために、それを個々の細部へと分裂させることはできないからである。その代わりに非常に多くの動機群が、音楽的記憶そのものを体験するかのように、曖昧に想い起こされる。そのことによって主題は、ニュアンスを変えられたり、別の光を当てられたり、ついには性格を変えられることが可能となる。


その結果、ヴァリアンテは大きな主題へと関連づけられ、主題を動機的に分解する必要なくして、構造的機能を手にするのである。




マーラー』(龍村あや子 訳、法政大学出版局) p.115-116

アドルノは、このマーラーの態度を、ベートーヴェン-ブラームス的な「経済原則」と正反対だと述べる。ベートーヴェン的な「先へ先へと動きを運ぶ蓄積された力」ではなく、マーラーのそれは「遠くへと耳を広げる聴き方の大きさ」にもとづいている、と。

ヴァリアントの技術は、音楽的な人間なら誰しも早くから感知するがもっぱら一種の敬意ゆえに覆い隠されてしまうようなある種の経験に根差しているのかもしれない。マーラーの場合には、事柄自体への敬意がその種の敬意から身を守った。
それはつまり、ヴァリエーションというものがしばしば主題の後で期待を裏切ること、ヴァリエーションが硬化してしまって主題の本質を奪い去り、主題が実際には他のものへと発展していない、ということである。


こうして古いタイプの形式変奏では例外なく主題が傷つけられているし、それどころかベートーヴェンのタイプのヴァリエーションにおいても、たとえば≪クロイツェル・ソナタ≫の第二楽章のいくつかにはその傾向がある。マーラーのヴァリアンテはそれに対する創造的な批判を行っているのだ。
彼のヴァリアンテの法則に従えば、逸脱は決してもとの形をその強さと意味の面から弱めてはいない。マーラーにおいては、しばしば動機がトランプのジョーカーの役割を担っている。そもそも、装飾的なものへと変換されたトランプの様々な絵姿はマーラーの音楽のそれ自体の像と似ている。その音楽は時にはトランプの王様のようにも見える。こうしたジョーカーのような動機のヴァリアンテは、まるで偶然であるかのように見過ごされがちである。


変化の中での偶然という契機は、賭け事に偶然が付き物であると同様、それらの意味自体に内在している。けれどもじっくり眺めるならば、そうしたヴァリアンテの中にも作曲上の論理が見出されるのである。




マーラー』 p.119-120

暴力的にまとめるならば、『クロイツェル・ソナタ』の第2楽章、あの甘美でこの上もなく優雅な「アンダンテ」でさえも、アドルノに言わせれば/マーラーと比べるならば/スコア(楽譜)から判断するに、その<主題>を「裏切り」、かつ「傷つける」ものなのだろう。それがベートーヴェンの音楽=経済原則なのである。
一方、マーラーにおいても、ベートーヴェンと比較すれば「非合理」に見える場合でも、しかし綿密に精確にスコア・リーディングすれば(アドルノ交響曲第4番を例に取る)、ベートーヴェンとは異なる方式で、「合理的」に作曲されているのがわかる。