id:garconstupide さんがコメントで教えてくれた(ありがとうございます!)、クララ・シューマンの映画『Geliebte Clara』のことが気になって調べてみたら、なんと『ル・シネマ』他でロードショー公開されるようだ。というか昨年開催された『ドイツ映画祭2008』(http://www.germanfilmfest.jp/)で、もうすでに『クララ・シューマンの愛』という邦題で国内で上映されていたのだった。
via.シューマンおたく学会さん
Geliebte Clara -http://www.geliebteclara.de/ |
Geliebte Clara
配給会社はアルバトロス・フィルム。タイトルは『Clara』……になるのかな?
監督はヘルマ・サンダース=ブラームス/HelmaSanders-Brahms。で、クララ役がマルティナ・ゲデック/Martina Gedeck、ロベルト役がパスカル・グレゴリー/Pascal Greggory、そしてヨハネス・ブラームス役がマリック・ジディ/Malik Zidi…って、フランソワ・オゾンの映画『焼け石に水』(原作はファスビンダーの戯曲)に出ていた人じゃないか。こんなハンサムで「若くて麗しい」俳優がブラームスの役をやって、しかもトレイラーを観ると──いかにもビーダーマイヤー調という感じなのであるが、あるいはこれこそが某哲学者の言う「油絵風石版印刷調」なのか?──なんとなくどういうストーリーなのか予想がつくような……。
ちなみに。ブラームス役を演じているマリック・ジディはジャズにのめりこんでいるらしくて、 myspace で「その音楽活動」を公開している。
ジャズ・メンによるブラームス……いーじゃないか。たとえアドルノが何と言おうとも、だ。
現在の音楽活動の宿命の一つは、例外を通例として扱うことである。芸術における芸術らしさを拒否し、ジャズのように、芸術を実用的ないし少なくともスポーツ的な行為に似たものにする音楽現象は、かつては音楽が鳴り響くと同時に生じた経験的存在(ダーザイン)との距離を確保する力がないことを証明しているばかりでなく、「なぜなら今からは、決して、聖なるものが実用的に役立つことはないのだ」というヘルダーリーンの定言を無視する一つの状態の虚偽性を暴露している。
十代や二十代の人たちは、実際にはもう高級音楽を呑み込んでしまっている営為に高級音楽の側を同化させようとする不適当な試みに、反抗をもって答える。彼らはこの矛盾を避け、凡俗な状態に凡俗な音楽という劣悪な一致の中へ逃げる。しかし彼らはそのことによって、少なくとも矛盾を告発してはいるのである。
テオドール・アドルノ『音楽社会学序説』(高辻知義/渡辺健 訳、平凡社ライブラリー) p.257-258 *1
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