HODGE'S PARROT

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メシアン《さればわれ死者のよみがえるを待ち望む》




オリヴィエ・メシアンの『われ死者の復活を待ち望む』(Et expecto resurrectionem mortuorum、1964)を聴いた。
演奏はベルナルト・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。1969年録音。レーベルはフィリップス。

Messiaen;Quartet End of Time

Messiaen;Quartet End of Time


タイトルの《われ死者の復活を待ち望む》はミサ通常文『クレド/信仰宣言』(Credo)による。そして、聖書のテクストが添えられた以下の5つの楽曲から構成される。

  1. 「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声をお聞きください」(詩篇 第130編1、2節)
  2. 「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しない」(ローマ人への手紙 第6章第9節)
  3. 「死んだ人たちが、神の子の声を聞くときがくる」(ヨハネによる福音書 第5章25節)
  4. 「彼等は栄光あるものに、新しい名とともによみがえるだろう──星たちの喜ばしい合唱と天の子たちの歓呼のうちに」(コリント人への第一の手紙 第15章第43節、ヨハネの黙示録 第2章第17節 ヨブ記 第38章第7節)
  5. 「わたしはまた、大群衆の声を聞いた」(ヨハネの黙示録 第19章第6節)


『われ死者の復活を待ち望む』は、フランス第5共和制初代大統領シャルル・ド・ゴール政権下で文化相を務めたアンドレ・マルローの委嘱を受け、1964年に作曲された。解説によると、この作品は、二つの大戦で亡くなった人々を追悼するものだという*1
弦楽器をオミットした──つまり、木管金管と金属打楽器のための音楽で、メシアンならではの色彩感覚と特異なリズムが聴く者の耳を捉える。神秘体験……。が、静かで瞑想的な雰囲気から一転、壮大なクレシュンドを経て、管楽器が咆哮し打楽器が打ち鳴らされる。その凄まじい音響に圧倒される。

私はかつてシャルトルの大聖堂の中でパイプオルガンの演奏を聴いていた時、内陣に溢れる光彩陸離とした焼絵硝子(ヴィトロー)の多様なかがやきと、オルガンの多様な音色が見事につり合っているように感じたことがあった。音と色彩からくるこの感覚のこの歓びが、その色彩にこめられた信仰の世界に人を誘ってゆくその魅力を私はあらためて実感したのである。


(中略)


それはともかく、私はそのシャルトルでの体験を、オリヴィエ・メシアンの音楽を聴いた時に思い出したのであった。彼はパリの音楽院(コンセルヴァトワール)を卒業すると、トリニテ教会のオルガニストになっている。このことは熱心なキリスト者としてはまことに意にかなった場所であったと思われる。


その彼が、一九六四年に『さればわれ死者のよみがえるを待ち望む』を作曲した時、最初は非公開で、パリのサント・シャペル教会でこれを演奏し、ついでシャルトルのノートル・ダム大聖堂においてド・ゴール臨席の下にもう一度これを演奏したのであった。言うまでもなく、この二つの教会は、焼絵硝子の美しさでも知られている。




饗庭孝男「感性の聖性」(『ギリシアの秋』より p.201-202、小沢書店)

けれでも、『さればわれ死者のよみがえるを待ち望む』という曲は、同じ宗教的な感性の働きはあってもその表現はきわだって異なってくる。先にのべたようにこの楽器編成は弦楽器を排したことと、多様な打楽器を用いたところにその特色がある。
その上、同じ聖書に依ってはいても、この曲の主旨は第一次、第二次の両大戦で戦没した死者のためにかかれたものであり、アクチュアルな問題をその背後にもった半ば鎮魂の思いをこめた作品とも言える。


(中略)


その乾いた、強い響きは、近代兵器の使用によって壊滅的な廃墟をつくりあげる現代の戦争の非人間的な思いをうかべるに適切な響きであり、私はとりわけ第二次大戦のドイツやフランス、ノルマンディの街と野にひろがる廃墟を思い出さすにはいられなかった。弦楽の情緒的な響きはこうした世界をもはや描くには足りないのではないだろうか。現代の深淵は同時に心の廃墟でもある。金属製打楽器の空気をひき裂く音がその中空にひびきわたっている。


死の静けさと、ともに第ニ曲のローマ人への手紙、第六章第九節が、イエズス・クリストの復活と死に克つことを私たちに教えてくれるのである。極限のフォルテシモと、そのあとにつづく沈黙の交替現象が、鐘の響きをまじえてあらわれるのだ。




饗庭孝男「感性の聖性」 p.213-214

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。


だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。




マタイによる福音書 第5章21-25節(新共同訳『聖書』より)

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。




ヨハネによる福音書 第5章24-25節

自分の信じる真理を愛すること──神学は伝達の必要からのみ生まれたものではない。それと同時に、というよりもおそらくそれよりも先に、信仰それ自体の内的懇請から生まれたものなのである。信仰の活力が信者を後押しして、自分が信じていることについて深く理論的に考えるように即す。このことは個別的にとらえた信者という主体と、教会の組織という全体としてとらえた集合的な主体との、両面で検証できる。


信者を個人として考察するとき、それは彼が暗闇のなかで信仰からえたものを、できるかぎり明るいところで見るように、理解するように促す内的圧力である。アウグスティヌスは、「私は自分が信じた真実を、知性によって見ようと欲した」(『三位一体論』)と語り、この言葉は長く語り継がれることになる。


いっぽうトマス・アクィナスは、「信じようとする従順な意志に促されて、人間は自分の信じる真理を愛し、それについて瞑想し、見出すことのできるかぎりの理由でそれを抱き締める」(『神学大全』)と説明している。


以下に引用するアウグスティヌスの定義が、トマスのそれと重なり合うのは偶然ではない。「同意を伴う省察にあらずして、信仰とはなんであろう? 信じなくても考えることはできるし、信じないために考えることさえしばしばである。
しかし、信じる人はだれでも、考える。彼の信仰は思考を含む。そして彼が信じるのは、考えながらである……思考のない信仰はありえない……」(『聖人たちの宿命』)。




ジャン=ピエール・トレル『カトリック神学入門』(渡邉義愛 訳、白水社) p.19

この作品(『さればわれ死者のよみがえるを待ち望む』)では、アマゾンからギリシャ、スペインまでのさまざまな地域からきた鳥たちが歌い、トロンボーンやホルンはよみがえる者たちを祝って歌う。全体としての合奏は感動的な、死者のよみがえりに対する喜びの総体なのである。




武田明倫「曲目と演奏者について」(『さればわれ死者のよみがえるを待ち望む』のライナーノーツより)

そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。




ヨブ記 第38章第7節

虹や星や天使の音楽を知る者には、画一主義的音列におおわれた灰色の世界は耐えられないものであったろう。そして現在われわれの評価の出発点となるのも、この想像力の発見した音響の錯乱のかげにかくされた孤独な心なのだ。




高橋悠治『作品と演奏についてのノート』(オリヴィエ・メシアン『アーメンの幻影』ライナーノーツより)

Visions De L'Amen / La Rousserolle Effarvatte

Visions De L'Amen / La Rousserolle Effarvatte

クレドは)管楽器の伴奏付きのミサ曲では、「生ける人と死せる人とをさばきたもう」(judicare vivos, et mortuos)で、最後の審判のラッパを象徴するようなトランペットが鳴り響く。「主の国は終わることなし」(cujis regninon erit finis)の「なし」(non)は必ず繰り返され、最終節の「来世の生命を待ち望む。アーメン」では規模の大きなフーガとなる。




相良憲昭音楽史の中のミサ曲』(音楽之友社) p.73-74

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*1:第二次世界大戦において、メシアンは従軍しドイツ軍の捕虜となった。その際、シュレジエン(Silesia)の収容所内で作曲・初演したのが『世の終わりのための四重奏』(Quartet for the End of Time)である。